◆外された「高松宮記念」
原:彼はハンセン病が伝染病ではなく、隔離は間違いだということもきちんと発信し、回復者の社会復帰を支援する財団や融資制度までつくっていて、その点も皇室とは大きく違う。いわばハンセン病に関する「より正確な理解」に基づいた「より具体的な活動」をしていて、そこはもっと評価されて然るべきです。
高山:ところが皇室で言うと、多磨全生園の国立ハンセン病資料館。あそこは元々「高松宮記念」とついていたのが、今は外されているんですよ。今は日本財団がその運営を担っていますが、あの資料館は高松宮の下賜金でつくられた以上、看板に意味はあった。要するに小泉政権時代に患者団体が国を相手取った集団訴訟で全面勝訴し、被害者には国家賠償をすると法律で決まったことで、「差別の構造を国家がつくり、隔離政策が悲劇を生んだ」いう文脈が固定化されていくわけですね。その過程で「高松宮記念」がいつの間にか外されている。
かてて加えて原告側が一方的に勝っちゃったものだから、今度は患者の家族までが集団訴訟を始め、請求額は1人500万円ですよ。本書にも書いたように僕はそのことに非常に疑問を抱いているんだけど、この問題に取り組んでいる新聞記者や支援者がそれを読むと「なぜ訴えてはいけないんですか!」という話に必ずなるんです。でも家族の問題と、実際に病気になった人のことは、やっぱり分けて考えるべきであって、家族こそが身内の病者に対して差別的冷遇をしていたのかもしれないわけです。ところが集団訴訟の論理で言うと、家族が差別したとすればそれは「国家がつくりだした差別構造によって図らずも誘発されたもの」といった歪な論理になってくるわけです。本書の「補遺」に書きましたけれども、国賠訴訟に加わらなかったあるハンセン病回復者の孤独な決意のありさまなどを読んでもらえば、ハンセン病という病気が昔も今も、当人の苦しみそっちのけにして「極めて政治的な目的」で利用されてきたことの不健全さをわかってもらえると思います。
そして日本では歴史的に皇室を頂点とするハンセン病ケアがおこなわれてきたとされる一方、民間で支えてこられた方々、ことに笹川陽平は、国内のことはほとんどさせてもらえなかった。要するに藤楓協会という支援団体が厚労省の下にあって、日本のことは我々がやります、あなたはどこか別のところでやってくださいということにされてきたわけです。
原:たとえば多磨全生園へ行くと、貞明皇后が下賜した藤とか、皇太子(現天皇)夫妻がお手植えした楓とか、皇室関係者の足跡を方々に見出せる。でもそのこと自体、僕は非常に違和感があるんです。
僕は貞明皇后、つまり大正天皇の妃で、昭和天皇の母親でもある節子の行動に関してはかなり調べてきましたが、彼女自身は全生園の中に実は一度も入ったことがないんです。一番近くて確か、1948(昭和23)年に車で埼玉県を訪れる途上、全生園の正門前でほんの一瞬、車を止めさせる。当時彼女はもう皇太后でしたが、車を止めさせ、窓を開けた。でも中までは入らなかったし、患者と直に会話することもなかったはずです。
それでも全生園にとっては一大事で、大々的に宣伝された。患者自治会の会長だった鈴木寅雄は、「感激の日」というエッセイを全生園の機関誌『山櫻』に書いています。
高山:貞明皇后の有名な歌がありますよね。「つれづれの友となりてもなぐさめよ ゆくこと難き我にかはりて」という。あの歌も全国のハンセン病施設に歌碑が建てられたりして、大変利用されました。とくに「救癩の父」こと光田健輔は、彼が中心になって進めた「無癩県運動」や隔離政策の中で、貞明皇后の存在を相当利用した。政治利用に近い形でね。