笹川陽平・日本財団会長のハンセン病制圧の旅に7年にわたって同行取材した『宿命の戦記 笹川陽平、ハンセン病制圧の記録』。著者・高山文彦氏と原武史・放送大学教授が「ハンセン病と皇室」について語り合う対談「人類史の暗黒に光を当てる──高山文彦『宿命の戦記』をめぐって」の最終回は、ハンセン病療養所・多磨全生園がある西武沿線に左派勢力が侵食していった風景の話から始まった。
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高山:僕が驚いたのはね、患者の家族側の集団訴訟で1人500万円勝ったら、弁護士の報酬は20%だそうです。原告団は600人近くいて、これは左翼勢力による明らかなハンセン病の政治利用でしょう?
原:左翼に乗っ取られるといえば、多磨全生園の近くにあった結核療養所もそうですよ。全生園は東村山市、結核療養所は清瀬市にあります。どちらも僕が以前住んでいて、そこでの体験を本に書いた滝山団地がある東久留米市の隣なんです。同じ西武沿線の。
高山:『滝山コミューン一九七四』ですね。
原:ええ。僕は小1から中1まで滝山団地で育って、団地の小学校が左翼勢力に乗っ取られていく話を書いたんですが、全生園に最も患者が多かった時期も、まさに団地みたいな集合住宅がズラっと並んでいた。その中に一種のコミューンができ、自治会が力をもつ話は、僕自身の実体験と重なります。つまりもともと雑木林があるだけの隔離された世界に同質的な団地ができ、そこに1つのコミューンができていく。
高山:つまりハンセン病患者も、皇室も、団地の住民も、決して「ひと色」ではなかった。それが同質化され、記号化されていく動きを、北條民雄は20代そこそこの若さで見抜いていて、凄いんです、彼の日記を読んでみるだけでも。
原さんは『滝山コミューン一九七四』の巻頭にカール・シュミットの『現代議会主義の精神史的地位』から、次のような言葉を引用されています。
〈あらゆる現実の民主主義は、平等のものが平等に取扱われるというだけではなく、その避くべからざる帰結として、平等でないものは平等には取扱われないということに立脚している。すなわち、民主主義の本質をなすものは、第一に、同質性ということであり、第二に──必要な場合には──異質的なものの排除ないし絶滅ということである〉と。
原:北條民雄は戦前、私が書いた滝山団地は戦後の話で、時代は違いますけどね。
今の西武新宿線と池袋線に挟まれた地域に、明治末期から昭和初期にかけてハンセン病の施設や結核の療養所ができ、戦後の1960年代に、それよりやや東寄りに滝山団地ができる。結核療養所が共産化するのは占領期、滝山コミューンは1970年代ですが、同じことが同じ地域で繰り返されたことに、僕は何か偶然じゃないものを感じるんですね。
実はそれが最初の話とも繋がるんですが、熊本という土地に根ざした渡辺京二さんの活動や著作に触発された僕は、ある時、自分があの地域で育ったことが何を意味するのかと考えた。すると団地とよく似た空間が明治の末からできていて、それが多磨全生園や結核療養所なんです。住宅地として売ろうにもなかなか売れなかった西武鉄道の沿線に、日本住宅公団が団地をつくり、当時は団地族への憧れが強かったこともあって、西武はイメージを変えていく。ところが駅前はあまりまとまった土地が確保できないから、駅からかなり離れた場所に団地ができる。滝山団地が典型ですが、そこはもうバスの終点なんですよ。住民しか乗らないような。そんな外界から隔絶された土地に、共産党の支部がつくられ、団地自治会ができるわけです。
まさに全生園も駅から結構離れていて、北條民雄が東村山まで西武線の電車で行って、駅から20分ほど雑木林のなかを歩いて行くシーンが『いのちの初夜』の冒頭にあるでしょう、タクシーに乗車拒否されて。あのシーンが、僕にはものすごく印象的だったんですよ。