宣教師の不在により、教義の理解は十分とはいえず、時代とともに薄れていった一方、オラショの祈り文句は、当局の摘発を避けるために「音」だけを頼りに、愚直なまでに正確に伝誦されてきた。こうした稀有な営みに光を当てることになるのが、今回の世界遺産登録のはずだった。
長崎の教会群を中心とした「遺産」が国内暫定一覧表に登録されたのは2007年のこと。ところが、その際にはもう、生月の名前はリストから消えていたという。
「生月島にあるカトリック山田教会(1912年竣工)を入れようという案が出ていたのですが、平成に入って一部に手を加えているから要件を満たさない、ということでした。では、信仰が現在も続く島全体を構成資産にしてはどうかという案もあったが、指定されれば土地や建物にも手を加えられなくなるので、地域の発展を阻害してしまう。そういう理由から、生月は外れざるをえないと(県の)職員はいうのです。ただ、別のやり方もあったのではないかと、今でも思います」
時の県知事が望んでもなお、生月島が構成資産から外れてしまったという。なぜそうした事態が生じたのか。文化財をめぐる複雑に絡み合った問題の全体像は拙著『消された信仰』に詳しく書いたが、謎を紐解く「ヒント」のひとつが、生月島の独特の“信仰形態”にあると考えられる。
生月島の信徒は聖母子などを描いた聖画に祈りを捧げるが、それだけでなく神棚や仏壇にも熱心に手を合わせている。一神教のキリスト教の考え方からすれば、複数の神様を拝む姿は矛盾を孕んでいるように見える。
こうした形態が生まれたのは、禁教期に「棄教したこと」を証明するために寺の檀家になったからだ。明治になって信仰の自由を手に入れた後も、生月島では先祖が成熟させたこのスタイルを守り通した。
ただ、この選択には、のちに主流派となるカトリックに復帰した側から、“もはやキリスト教とはいえない土着信仰”というレッテルが貼られていく。長崎に根強く残るこうした見方が、県庁の判断に影響したのではないか──そう尋ねると、一呼吸おいて、金子氏はこう認めた。
「(県庁の担当に対して)そういう影響は、確かにあるかもしれんな。構成資産に入ったのはカトリック信者が多いところだし、カトリックの目線で“異宗教”になっている人たちは外されやすい。とりわけ生月島は、ほとんどの住民が(禁教期の信仰形態を守る)かくれキリシタンでしたから」