強者は半グレ集団であると同時に、地下格闘技大会の看板も背負っていた。武闘派メンバーらは、大阪でナンバーワンの人気を誇っていた地下格闘技大会「強者」をはじめ、東京、名古屋、そして福岡などで開催される地下格闘技大会に出場し、その名をとどろかせていた。この功績こそが、相手がヤクザですら決して引かないという、強い半グレ集団の証明でもあった。さらに、当時の半グレ集団には「ファッション性」があった点も見逃せない。福岡市内の半グレ組織メンバーだったY氏が説明する。
「いろいろヤンチャしてきて、これまでならヤクザになっとったでしょうね。でも当番とか下っ端の仕事もせないかんし、いっちょん(全然)儲からん。先輩のヤクザは、上に金納めるためにドカタして生活保護もらいよったです…。ヤクザは“ダサい”ってなるでしょ。半グレは、洋服もカッコよかブランドもん着て、格闘技の試合に出れば人気も出るし、インスタらFacebookで自慢できる。雑誌に出たり、イベントのゲストに呼ばれてギャラ貰って…。まあ悪さもしますけど、表ツラはかっこよかですよ」(Y氏)
要するに、本来であればヤクザになっていたという人種が、ヤクザイメージの崩壊、そして半グレ人たちがやたらとアピールしてきた「ファッション性」の訴求が功を奏してか、半グレにあこがれを抱いたり、半グレ集団に合流していったのである。しかし、メンバーが暴行や傷害容疑で相次いで検挙されると、大阪最強とされた「強者」も解散に追い込まれた。大手紙の大阪社会部に勤務していた記者が回顧する。
「強者が解散し、他の半グレ集団も活動縮小。ある意味での“暴力団回帰”が始まるのかと噂されていましたが、結局新興の半グレ集団が跋扈しただけ。ただしこの半グレ集団、少し調べてみると以前よりも暴力団との結びつきが強く、ほとんど暴力団そのもの。かつての半グレのように、カリスマ性のあるリーダーや名うてのメンバーがいるわけでもない。仕切っているのはヤメ暴力団員、(暴対法における指定暴力団の構成員)名簿には名を連ねていないが実質的には暴力団に入っているというヤブヤクザ。今回の事件は、完全に暴力団の下請けに成り下がった半グレと、その取り巻きが起こしたという事件です」(大手紙大阪社会部元記者)
これでは、半グレを解散させたことによって、暴力団のアウトソーシング化、下請け化、はたまた派遣化が進んだだけではないか。
1992年に施行された暴対法の影響で、指定暴力団は以前のような経済活動ができなくなった。繁華街の飲食店に対して要求していた「みかじめ料」「用心棒代」請求など、かつては当たり前に暴力を行使して行ってきた活動が、法で禁じられたのだ。その後、2000年代半ばから全国各地の自治体でも同様の条例が定められていったため、一般社会と関わることすら難しくなった。その結果、直接的な収入源を断たれた暴力団は、その活動を半グレなどに委託する「アウトソーシング」を始めた。
とはいえ、半グレは様々な系統の暴力団とつかず離れずの関係を築きつつ、格闘技大会や飲食店経営などで独立性を保ってきたともいえる。しかし、半グレ集団による犯罪行為が目立ち始めると、当局の圧力を受けて解散したり、活動休止に追い込まれた。後に残った半グレ集団の残党だけでは、これまで通りの半グレ活動を続けられず、半グレ集団丸ごとがヤクザの下請けとなり、暴力団ではない「半グレ集団」として、名前だけがなんとか存続しているのだ。X氏も続ける。