その立体交差論は〈生麦事件〉の再定義から始まる。これは薩摩を目指す長距離移動の島津久光一行と、川崎大師見物に訪れた近距離移動の英国人による交通事故なのである。より身近な例では、猫がヒトとの交差を避けて〈塀の上を行く〉のも立派な立体交差。〈立体交差とは、このような異なるモードの交通が衝突しないようにする構造物である。それはつまり、高さの違いによって分離しようとする発想だ〉
またモードや速度の違いは自ずと形状にも表れる。高速化する乗り物は急カーブを曲がれず、高速道路や新幹線の線路は地図では太い直線となる。そして曲がる、上るなどの変化をならすことをめざす高架は、いよいよ巨大化する。その姿が歩行者レベルでは異常に見え、〈景観問題とは、射程の違いによるスケールの衝突〉であると、大山氏の説明はいたって明確だ。
◆日本橋は「土木のミルフィーユ」
「僕らは3.11を機に、東京の電力源は福島にあるなど、都市機能が〈アウトソーシング先の遠さ〉に担保されていることを改めて思い知りました。しかも常に〈変わらないこと〉を宿命とする都市には、物資を滞りなく流すために造られたインフラに緩衝地帯を設ける時間的、空間的余裕がないんですよね。
川が何千年もかけて削られて川原が作られるのに対し、高速道路や垂直護岸は〈緩衝ゼロ〉。確かに前者は周囲の景色となじんでは見えるけれど、どちらも〈地形の破壊〉であることに変わりはなく、要は緩衝地帯があるかどうかの違いだけなんです。
それをヤバいと思うか面白いと思うかは僕個人の感情で、社会的合意は含まれない。もちろん20年前に比べれば同好の士もだいぶ顕在化していますが、単に景観的な理由で電柱の地中化を進める都知事たちは、そういう価値観があること自体知らないらしく、まずは電柱や立体交差が好きな人間もいるってことを表明して仲間を増やし、そこから議論に繋げたいんです」