右派と左派がせめぎ合う政治の季節に育った松崎は、1936年、埼玉県生まれ。川越工業高校在学中は民青で活動し、卒業後は義兄の勧めで国鉄へ。臨時雇用員として働く傍ら、日本共産党に入党し、正規採用後は動労の前身、機労に加入。その後、機関助士となり、青年部を立ち上げるなど、頭角を現わす。またこの頃、松崎は後に革マル派を率いる黒田寛一と会い、日共を離党。黒田が理論、松崎が闘争と集金を担い、国鉄に革マル分子を続々と送り込んでゆく。
「1957年に黒田が立ち上げた“革共同”が1963年に本多延嘉の中核派と黒田の革マル派に分裂し、以来両者の対立は内ゲバへと発展します。そんな中、松崎は動労の初代青年部部長に選出され、元々は『切符切りと一緒にするな!』と言って国労を出た旧機労系勢力を駆逐し、当時最大勢力だった国労とも覇権を争うようになる。“コペ転”も国労の孤立を図り、新会社で実権を握るための雌伏作戦と言えます。
しかも彼は〈悪天候の日に山に登るのは愚か者〉とか、演説で組合員の心を掴むのが実に巧い。結果、当局のお偉方までが取り込まれ、革マルによる組合専横説も松崎さえ否定すれば、ないことにされていくんです」
◆権力はいずれ腐敗するのが世の常
国鉄解体によって総評や野党をも解体させた中曽根元首相の意図や、国鉄側の改革派三人組、葛西敬之、井手正敬、松田昌士各氏の活躍は前作にも詳しいが、その中で松崎が巧妙に立ち回り、新生JRをも手中に収める様は、戦慄必至だ。
JR移行後、井手は西日本の副社長、葛西は東海の取締役、松田は東日本の初代社長・住田正二の下で常務に就くが、松崎はこの住田・松田ラインに〈労使対等〉論を呑ませるほど、蜜月を築く。