〈少女像などに不快な思いを抱く人がいるのは否定しない。しかしだからといって、こういう形で公権力が表現活動の抑圧にまわることは許されない〉
あくまで朝日が読者に示す対象は「少女像」なのだ。読者を絶対的に「印象操作」した上で、トリエンナーレのあり方を検証するために愛知県が設けた委員会の中間報告に話を持っていく。
〈▽展示が政治的色彩を帯びていても、公金の使用は認められる ▽表現は人々が目を背けたいと思うことにも切り込むことがある ▽ヘイト行為の一般的なとらえ方に照らしても、少女像はそれに当たらない――と指摘。展示を中止したままでは「悪しき前例や自主規制を誘発する」と述べ、環境を整えたうえでの再開を提言した。きわめて真っ当な内容だ〉
朝日は中間報告に諸手を挙げて賛成なのだ。だが、ここで「昭和天皇の肖像をバーナーで焼き、燃え残りを足で踏みつける」作品等が紹介されたら、どうなるだろうか。この論理が「通用しなくなる」ことがおわかりになるのではないだろうか。
日本への、そして日本国民統合の象徴である昭和天皇の肖像画をバーナーで焼き、燃え残りを足で踏みつける作品であったとしても、朝日は〈展示が政治的色彩を帯びていても、公金の使用は認められる〉 あるいは〈表現は人々が目を背けたいと思うことにも切り込むことがある〉と言えるのだろうか。
そして社説はそれらの作品には触れないまま、〈ヘイト行為の一般的なとらえ方に照らしても、少女像はそれに当たらない〉と、これが「少女像問題である」ことに、あらためて読者を誘導するのである。
◆新聞存続への“鍵”
私は、〈「全ての表現脅かす」〉という見出しの社会面の記事にも言葉を失った。日本では、いかに表現の自由が侵されているかを問う記事である。「読者を一方的な方向に導き、ここまで洗脳しようとするのか」と思う。読者を本当に馬鹿にしているのだ。
大村秀章知事は「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。検閲は、これをしてはならない」との憲法21条を持ち出して展示を正当化しようとしたが、同時に憲法12条には、「自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、 常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」との規定がある。つまり、表現の自由は決して「無制限ではない」ことが憲法では戒められているのだ。
昭和天皇の顏や肖像を損壊するような作品が「表現の自由」の恩恵を受けるべきなのか、また「国民の税金」投入に相応しいものかどうか。
この問題は、真っ正面から論じなければならないものである。だが、朝日をはじめとするマスコミ報道で“情報弱者”と呼ばれる読者層は「真実」を知らされないまま補助金の不交付に怒りを募らせている。
自己の主張に都合のいいように一部を切り取り、重要な部分を故意に「欠落」させて大衆を誘導することを「あたりまえ」だと考えている日本のマスコミ。長年の慣行と思考から抜け出さないかぎり、彼らはやがて「誰からも顧みられなくなる」だろう。