サンプルとして渡してくれたものひとつに「小沢一郎と私」というエッセイがあった。彼女の父と小沢氏との関係から始まり、自身が議員となるきっかけなどが綴られていた。ただ、こうした企画は「小沢ガールズ」として持て囃された時代には企画が通る場合もあったかもしれないが、旬を逸した話題を記事にすることは難しく、結局、世に出すことはできなかった。
その後も、彼女とは時々連絡を取る関係が続いた。私が政治に関する漫画の監修をするといえば、自身の政治家としての経験を語ってくれるなど、最大限の協力をしてくれた。
彼女によると、雪子という名前は、吉田茂の妻として政界から人気のあった雪子夫人にちなんだ名前であり、吉田家と交友関係のあった父からつけられたのだという。幼い頃から政治の世界と遠くない距離にいて、いろんな刺激を吸収してきたのだろう。彼女は多くを吸収する人で、多くの現役議員よりも勉強熱心だったように思う。
彼女から発せられる言葉は力強かった。弱い立場の人に救いの手を差し伸べたいという政治に対する熱意を失っていなかった。フジテレビ同期である有賀さつきさんが亡くなった際も、残されたお子さんのことをとても心配していた。
しかし、一方で、彼女が抱えている弱さも垣間見えた。彼女はインターネットで元支持者から誹謗中傷を受けていることを気に病んでいた。「そんなことを気に留めていると精神的にもたないですよ」と言って聞き流していたが、当事者になると簡単には無視できないものなのだろう。彼女はネットストーカー問題の企画も多数提案してくれたが、それもなかなか企画には繋げられなかった。メディア関係者を直接紹介することもしたけれど、元国会議員としての発信は色がつくと敬遠され断られることもあった。
それでも昨年、彼女は自力で日刊紙の連載の機会を得たようで、嬉しそうな連絡が来た。そして地方議会の議員としてローカルに活動する可能性にもチャレンジしたいなどとも抱負を語っていた。
昨年11月に彼女から私に来た電話が最後だった。「今度、要人と会うから、三宅雪子のインタビューということで、どこかのメディアでできないでしょうか?」という提案。私は可能性のありそうなメディアに打診してみたがいい返事は得られなかった。年明けくらいに編集者を紹介しますねと話したきりだった。彼女は「腰痛で痛い、薬を飲んでも耐えられないくらい激痛で辛い」と珍しく愚痴った。たまたま私もヘルニアを発症し歩けない状態だったので「たまたまですね、私もですよ」というと、そんなレベルじゃないんだと言っていた。