運命に導かれるように最終決戦の日に決まっていた4月5日は、選抜体重別の延期によって、ただの日曜日になってしまった。顕志氏は言う。
「運命ではなくなりましたね(笑)。ただ、今回の延期は息子にとって幸いしたのではないかと嬉しく思っています。というのも、小さな頃から息子の成長を見守ってきた私から見て、身体の状態としては万全に仕上げていたと思いますが、心技体のうち、心の部分がまだ足りず、私には少なからず危機感があった。気配り、目配り、心配り……柔道家である前に人として大事なものをあいつは見失っていた」
自身の果たせなかった五輪金メダルの夢をふたりの息子に託し、顕志氏は柔道の師としてスパルタ教育を徹底してきた。自身が出場したバルセロナ五輪では、前夜に過度の重圧から眠れず、人生で初めて睡眠薬を服用した。減量していた身体には薬の効き目が想像以上にあり、試合当日は身体がしびれるような状態に陥り、思うように身体が動かない。準々決勝で敗れ、7位という失意の結果に終わった。
顕志氏はちょっとした気の緩みや驕りが大きな失敗を招くことを息子たちに伝え、実家を離れてからも丸山の柔道に「心がない」と度々指摘してきた。
丸山が中学生だった頃、試合中に攻めあぐね、顕志氏が最も嫌う「指導」による反則負けが続いたことがあった。すると、試合に「城志郎」の名で出場することを許さず、しばらく「城士郎」の名で出場させた。
さらに阿部一二三という新星が台頭。二度目の対決となった2016年の選抜体重別で、丸山はやはり指導によって敗北してしまった。すると、「城志郎ではなく、(阿部一二三に対抗して)四五六を名乗れ」と叱咤すると共に、絶縁を宣告し丸山の結納にも顔を出さない。師弟関係の解消は3年半も続いた。
「久しぶりに顔をあわせた昨年、世界選手権を前に『世界一になります』と私に言ってきた。これは良い顔をしているな、と。ようやく心が伴う柔道家になってきたな、と。それで世界選手権も応援に行ったのです」
世界一となったあと、丸山親子は、会場となった日本武道館の前で記念写真を撮った。日本武道館は東京五輪の舞台であり、何より「城志郎」の名に込めた理想の“城”である。いよいよ東京五輪の代表が近づいていることを実感し、丸山は昨年11月のグランドスラム・大阪で優勝すれば、代表に内定することになっていた。
しかし、同大会の決勝で阿部に惜敗し、さらに今年2月のグランドスラム・デュッセルドルフは、丸山が直前に負った左ヒザの靱帯損傷によって出場を回避すると、阿部は女子52kg級に出場した妹の詩(うた)と2人揃って優勝。丸山と阿部の代表レースは横並びとなった。顕志氏が続ける。