とは言いながらも、堂原さんは持ち前の根性とバイタリティーで営業でも成果を上げる。そして、CM・広告制作の部署を経て配属された企画室で、本領を発揮していく。
「担当は地域の観光促進。そのときに“愛知県は戦国大名の7割を輩出している”という話を聞き、これだ!とひらめいた。もともと歴史に興味があったわけではないのですが、“戦国大名”って、世界に通用するすごいコンテンツだと思って。全国の博物館に手紙を出して、愛知ゆかりの武将たちの資料を集め、朝から晩まで『武将観光』のPRを考えていました」
2009年には名古屋市役所とタッグを組んで、観光PRグループ「名古屋おもてなし武将隊」プロジェクトをスタートさせた。織田信長など武将に扮するのは地元のハローワークで集めたイケメンたち。堂原さんはPRだけではなく、武将たちの育成にも心血を注いだ。
そのかいあって「名古屋おもてなし武将隊」は大ブレーク。翌2010年には26億円の経済効果を生み出し、地方に続々と生まれた「武将隊」の嚆矢(こうし)となった。映画監督のジョージ・ルーカスが「侍が大好き」と聞けば、「地元で映画を撮ってほしい」と、毛筆でしたためた巻物の「嘆願書」を送った。仕事を続ける中で、堂原さん自身もマスコミに取り上げられることも多くなり、一躍“時の人”となった。
だが、輝かしい活躍の半面、30代を迎えた頃から、自分の中に抱える「違和感」が大きくなってきたという。
「『武将隊』の仕事は純粋に楽しかった。手ごたえも感じていたから、10年近くの間、寝食を忘れ、没頭してきました。一方、『企画室副部長』という役職もつき、自分が『会社組織』の一員であり、“ビジネスとして利益を上げなければいけない”という責任がのしかかってきた。『ビジネス』というものを頭では理解できていても、どうしても好きにはなれなかった。結局、私はモノを売って、利益を上げることは、まったく面白いと思えなかったんですね」
人生100年時代。これから何十年と生きていく中で、このままでいいのだろうかと、葛藤はどんどん大きくなり、いつしか、無視することができなくなった。そこで、堂原さんは、人生最大の決断を下す。
「“そうだ、次の局面に行こう!”と、16年間勤めた会社を退社することを決意しました。37才の夏頃でした」
◆上司と両親を「プレゼン」で説得 「幸福」を探しに世界一周の旅へ
「退社は決めたものの、実は、次のビジョンは、何ひとつ決めていなかったんです。何がしたいかと考えてみたんですが、興味のあることが思いつかなかった。だから、“どういう人が羨ましいか”と考えてみた。そうしたら、“海外に行っている人”だった(笑い)。だからまず、“海外に行こう!”と決めた。
もう1つ、海外を選んだ理由は、自分の次のキャリアを考えたときに、独立するにしても何にしても、武器があった方がいい、と思ったんですね。幸い、私には会社員時代に培ってきた『地域活動』と『PR』という武器がある。そこに、『海外』が加わったら、最高じゃん、って」