「千葉監督は成績を上げられませんでしたが、近鉄球団の改善に尽力した。まだ新幹線が開通する前の時代、近鉄は三等車で移動していたが、千葉はフロントに要求して二等車に変え、宿舎の質も上がった。練習設備も徐々に整えられて行きました。また、巨人の親会社である読売新聞は関西や九州の販路拡大を目指しており、近鉄と付き合うメリットがあった。千葉茂を譲渡したことで、キャンプ地として評判の高かった宮崎を近鉄から譲り受けています。千葉監督の就任をきっかけにパイプができたことで、その後も両球団の間で移籍が活発になりました」
現役の「猛牛戦士」は3人だけ
巨人と近鉄のトレードといえば、1985年オフに定岡正二が移籍を拒否し、引退したことが思い出される。結局、巨人は淡口憲治、山岡勝を放出し、近鉄から有田修三を獲得した。
有田は当時のレギュラー捕手である山倉和博を脅かす存在となる。1986年9月8日、広島とのデッドヒートの最中、後楽園球場での大洋戦では8回2死一、三塁の場面で、三塁線にセーフティースクイズを試みる。アウトとも捉えられかねないタイミングだったが、判定はセーフ。決して足が早いとは言えない有田のセーフティーバントに巨人ファンは狂喜乱舞した。
淡口は近鉄移籍後も、シュアな打撃でチームに貢献。1988年、ロッテとの伝説の『10.19』では第1試合、同点のまま終われば優勝のなくなる9回表、先頭打者として二塁打を放ち、勝ち越しの口火を切る。第2試合では同点の9回裏2死満塁で、愛甲猛の放ったレフト前に落ちそうな打球を好捕するなど勝負所で活躍。翌年、近鉄の優勝に貢献し、日本シリーズでも4試合に先発出場したが、その年限りで引退した。
1996年オフには近鉄の4番を張った石井浩郎と巨人の抑えだった石毛博史、若手の有望株である吉岡雄二の1対2のトレードがあった。また2001年のシーズン途中には近鉄の田畑一也、真木将樹と巨人の三沢興一、玉峰伸典の2対2の投手同士のトレードが成立した。
これらの交換が、2001年の近鉄最後の優勝に大きな意味を持っていた。近鉄移籍後に花開いた吉岡は同年、26本塁打、85打点と主軸として活躍。三沢は投壊に苦しむチームの中で、中継ぎとして7勝0敗と働き、優勝に貢献した。