うるさ型の中野会長もクーデターに誘われたが断ったという。
すると1996年7月、自宅近くの京都・八幡市内の理髪店で、中野会長は会津小鉄会系のヒットマンたちに銃撃された。不穏な空気を察知して、理髪店は事前に強化ガラスへと替えられていたため、中野組長に銃弾は届かなかった。ボディガードも拳銃を携帯しており、実行犯の2人が返り討ちにあって射殺された。
襲撃の1か月半後には大阪・梅田の路上で中野会長の盟友で、「サージ」こと生島久次氏が射殺された。殺害時はカタギで、肩書きは不動産会社社長ではあっても、図抜けた経済力を持った元極道で中野会に復帰するといわれていた。
生島氏の殺害を知った中野会長は怒り狂った。そしてその約1年後、新神戸オリエンタルホテル(現・ANAクラウンプラザホテル神戸)のティーラウンジで、宅見若頭が射殺される。6日後、巻き添えになった歯科医も亡くなった。
犯行が中野会長の指示だったのか、『悲憤』では核心に一切触れられていない。ただ、京都で自身が襲撃された直後から、渡辺五代目が何度も宅見若頭の殺害を催促してきたと記されている。クーデターを察知した渡辺五代目は、中野会長に「宅見若頭を殺せ」とせっついていた。中野会長はあくまでその代行をしたと述べるが、渡辺五代目の要望を拒絶する実力があった。殺害を決めたのは中野会長自身だったろう。
当時は防犯カメラの性能が低く、真犯人が判明するのに時間がかかった。その渦中、中野会長は『週刊文春』の取材に応じ、自分たちの犯行ではないとシラを切った。通常、暴力団であってもここまで真っ赤な嘘はつかない。質問に返事をせず、はぐらかし、逆ギレしても、事件が自分たちの犯行なら「やっていない」とは明言しない。
事件後、いったんは破門処分となっていた中野会長は、真犯人の確定する直前に絶縁処分となった。犯行の総指揮をとった若頭補佐は、翌年の7月、ソウル市内のマンションで変死し、中野会による口封じが囁かれた。
報復のターゲットが確定すると、宅見若頭の弔い合戦に執念を燃やす山口組は、容赦なく中野会に攻撃を仕掛けた。1999年9月、中野会ナンバー2の山下重夫若頭が麻雀店で撃ち殺され、2002年4月にはナンバー3の弘田憲二副会長が、ヒットマンの乗ったオートバイと沖縄でカーチェイスを繰り広げた末に射殺された。それでも中野会は報復をせず、存続し続けた。暴対法による指定団体にもなった。