一方、クイズ番組のクイズを作るのが「クイズ作家」だ。これまでクイズ作家として多くの番組に携わってきた道蔦岳史さんは、視聴者参加型のクイズ番組で優勝を繰り返すクイズ王だった。道蔦さんに話を聞いた。
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ぼくがクイズ番組で初優勝したのは、1979年春の『クイズグランプリ』(フジテレビ系)高校生大会。翌年、大学生になってからは、当時多かった視聴者参加型番組に次々に挑戦し、優勝してハワイやヨーロッパ、エジプト、ニュージランドなどを旅して、車も手に入れました。ラッキーでしたね。
特に印象深かったのは、スケールがケタ外れの『アメリカ横断ウルトラクイズ』(日本テレビ系)。まず日本を脱出するまでが大きな山場で、ぼくは2回、後楽園球場で勝ち残ってアメリカに渡りましたが、結局優勝できませんでした。日本で勝ち残り、米国・メンフィスに行ったものの敗退し、罰ゲームをしたとき、プレスリー像の前で衣装を着て、地元のプレスリーそっくりさんと撮りました。
『アタック25』(テレビ朝日系)には、19才のときに出場しました。司会の児玉清さんがまだ5年目だったか、後半のソフトな印象とは違い、少し怖かったのを覚えています。
クイズ作家となって思い出深いのは『クイズ$ミリオネア』(フジテレビ系)。辰巳琢郎さんが1000万円獲得をかけて挑んだ最終問題を作ったのがぼくです。英国版と違い、日本では後半の賞金が倍々とはならず、たとえば500万円の問題がクリアできたら次の問題を見てやめる人が多かった。でも、辰巳さんは果敢に挑戦し、見事に散ってくれました(笑い)。番組的に盛り上がり、クイズ作家冥利に尽きる一問でしたね。
取材・文/北武司
※女性セブン2021年4月8日号