「多い時で三十万くらいか。助かってたといえば助かってたんだけどな」

 確かに個人経営のカーサービス店には大きな額だ。

「こいつの学費の足しにと思ったんだよ。志乃が病気で長いこと苦しんだだろ。亡くなったときに〝大人になったらどんな病気も治せる医者になる〟って。それからずっと医学部を目指してるんだ。医学部は金がかかるって言うからさ」

 それは隼人からも聞いていた。誰に似たのか隼人は勉強がよくでき、県内屈指の進学校に通っている。

「やめてくれよ!」隼人が立ち上がった。「金のために卑怯な会社の片棒を担ぐようなマネをする親父なんて見たくない。俺、学費が安い国立に行くからさ」

「おまえな、国立の医学部がどれだけ難しいか知ってんのか? 高校もやっとこさ卒業した俺の息子なのに」

 お義兄さん大丈夫だよ、と文乃は割って入った。

「隼人の成績、見たことある? 大したもんだよ。理系クラスでトップだもの。国立の医学部、十分狙えるよ」

 え、そうなの、と保は目を丸くして固まってしまった。この人、自分の息子の成績を知らなかったのだろうか。名義貸しの件もそうだが、どうもこの義兄は抜けたところがある。姉はそんな保を見て、いつもハラハラしていたっけ。

「俺、母さんとの約束を守るよ。絶対医者になるからさ、親父も堂々と、かっこいい親父でいてくれよ」

 隼人が言うと、保が言葉に詰まった。肩を震わせながら「すまん」と絞り出すのを聞いて、文乃はまた思い出す。そうだ、涙もろいところがかわいいって、姉は生前のろけていたな。

古タヌキの直撃

  一週間後。午後三時半すぎに愛知県豊臣市のトヨトミ自動車本社にやってきた日商新聞名古屋支社トヨトミ自動車担当記者の多野木聡は、全面ガラス張りの巨大な社屋を擁する広々とした敷地をぐるりと回り、正面玄関ではなく裏口に出た。

 現在六十歳。今年の三月に定年を迎えたが嘱託記者として社に残った多野木は、今でも精力的に取材をこなしている。老獪な取材術でスクープを飛ばすことからついた〝古タヌキ〟の異名も健在である。

 陽射しはまだ強く、社屋が反射した光が目を刺した。本社工場で三時五分までのシフト勤務を終えた工員たちが裏口ロータリー脇のサルビア花壇のへりに腰かけ、一様にスマートフォンをいじりながら帰りのシャトルバスを待っていた。

 工員を乗せたバスが走り去ってから十分ほど経っただろうか。四時少し前になると、目当ての人物がやってくる気配があった。トヨトミのグレード2高級車種の「クイーン」が裏口に横づけされたのだ。

 そちらに駆け寄ったところで自動ドアが開き、秘書を連れた痩身の男が姿を現した。白い短髪にグレーのスーツがよく似合う。七十を優に過ぎているが、身のこなしは若々しく、ロータリーまでの数段の階段を足どり軽く駆け下りた。トヨトミ副社長の林公平である。

「林副社長っ」

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