呼びかけに振り向いた林は一瞬こちらを睨みつけたが、多野木の顔に気づくとすぐに相好を崩した。
「ああ、誰かと思ったら多野木さん」
突然の直撃取材への不快感はなさそうだが、警戒していることはマスク越しでも伝わってくる。
「ご無沙汰してます。今、少しお話をお聞かせ願えませんか」
秘書の目つきが尖り、林との間に割って入ろうとしたが、林はそれを制した。
「どうしたの、多野木さん。日商さんはうちの職域接種の対象じゃないでしょ」
たしかにその日、トヨトミ本社にはコロナワクチンの職域接種を待つ人の長い列ができていた。しかし、自分がトヨトミでワクチン接種をするはずもない。多野木は林のこの軽口から、日商新聞に向けられたかすかな棘を感じた。
二〇二〇年、新型コロナウイルスのパンデミックにより、世界中で人やモノの移動が著しく制限されたことで、自動車メーカーは甚大な影響を受けた。そのため昨年九月のトヨトミの中間決算は大いに注目されていたのだが、この決算の事前報道が気に入らなかったのか、トヨトミは決算会見に日商新聞を出入り禁止にしたのである。
新聞記者たるもの、この程度のジャブにひるんではいられない。「尾張モーターズの不正車検についてです」と本題を切り出すと、林の顔色が変わった。同僚の若手記者・高杉文乃が内部告発をもとにトヨトミディーラー最大手「尾張モーターズ」による組織ぐるみの不正車検を嗅ぎつけたのは先月のこと。
スクープの匂いを嗅ぎ取った日商新聞のトヨトミ自動車担当チームは、手分けして周辺取材を進めていたが、告発した元整備士・横井一則は、文乃と会った直後に不正の証拠を記録した動画を国土交通省に持ちこんだらしい。尾張モーターズ傘下のディーラーには抜き打ち検査が入り、組織ぐるみの不正が暴かれた。
車検で不正が行われたクルマは、合計実に五千台以上。多くの店舗で排ガスの一酸化炭素濃度の計測やサイドブレーキの制動力のチェックなど、必要な項目を検査しないまま車検を通していただけでなく、基準から外れた数値が出た項目の書き換えまで行っていた実態が明らかになり、不正を行っていた複数の店舗には、国から指定自動車整備事業者の認定取り消しの行政処分が下った。
多野木は林に質問をぶつける。
「この不正車検でトヨトミが進める“ディーラー再編”に何らかの影響が出るのでしょうか」
この件について、トヨトミは「ユーザーの方々に多大なご迷惑をおかけしたことを心からお詫び申し上げます」と、ディーラーの不祥事に遺憾の意を示す一方で、それ以上のことは「取引先のことなので」とコメントを避けてきた。マスコミの報道も、忖度がはたらいたのか、トヨトミ本体の責任を問う声はまばらだった。
トヨトミはメディア各社に対して、毎年総額一千億円にも及ぶ巨額の広告を出稿している。カネでメディアを飼いならすことで不都合な報道を潰し、自社に利益のある記事を書かせようとするトヨトミの長年の戦略が、ここでも威力を発揮したわけである。
しかし、不正の土壌となったのは、トヨトミが「全車種併売」によってディーラー店舗を均一化し、「ディーラー再編」をちらつかせることでディーラー各社の危機感を煽りすぎたことだ。無関係などとはとてもいえない。だからこそ、再編を取り仕切っているとされる林に話を聞きたかった。
「取引先が絡むことだ。ここでは言えないな」