21才で大腸がんステージIVの宣告を受け、22才で結婚、23才で娘を出産。2021年9月、闘病の末に24才で亡くなった遠藤和(のどか)さんが1才の娘のために綴った闘病中の日記をまとめた『ママがもうこの世界にいなくても』が話題を呼んでいる。タレントの眞鍋かをりさんは「『しあわせ』とは何なのか考えさせられた」と話す。
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読後は、不思議な感覚に包まれました。読む前は「重くて感動的な闘病記」を想像していたのですが、そうではなかった。
なんでだろう……。和さんの人柄が、逆境にあっても、驚くほどに明るくて前向きであること。そして、日記形式で、闘病が等身大で淡々と書かれていることが、本の読後感に強く影響しているように感じています。
「しあわせの基準は人それぞれ」という、当たり前だけれど、実は私も含めて多くの人が普段の生活のなかで忘れがちなことを、和さんは教えてくれました。和さんは、ステージIVの大腸がんとわかってもなお、「出産して母になる」という決断をしました。そのことについて、いろいろな意見をもつ人がいたようです。子供を産むことは、体に負担をかけないわけはありませんし、闘病に影響があるかもしれません。また、和さんが亡くなったら、娘さんは母親のいない子になり、お父さんはシングルで子供を育てることになります。
考えるだけでも、くじけそうになるぐらい大変なことです。彼女と同じ立場だったら、私は産まないかもしれません。でも、和さんの思いや決断を読ませてもらい、それが「当たり前の感覚」ではないことが胸にささりました。人はそれぞれおかれた状況も違えば、しあわせの基準も違う。私のものさしで和さんとご家族のしあわせを測ってはいけないと感じました。彼女たちにとっては、それがしあわせだったのであり、そう信じたからこそ、奇跡のような出産が起こりえたし、家族3人の日々も実現できたのです。
「子供がかわいそう」と言う人もいるようです。私もひとりの親として、そういう考えを理解できる部分もあります。だけど、少なくともいま、和さんを失ってものすごくつらいなかで、娘さんの存在は、遺された家族にとってもしあわせの源になっているのではないでしょうか。最近、よく「炎上」という言葉が話題に上がりがちです。批判的な意見をSNSやコメント欄に書き込む人が増えたからだと思うのですが、そういう人たちは”自分のものさし”が正しいのだと、微塵も疑うことなく否定や批判をしてしまっていないでしょうか。私たちにはそれぞれ、他人には推し量ることのできない事情や、その人にしかわからないしあわせの基準があります。和さんは命をかけて、「自分のしあわせ」と「遺される人たちのしあわせ」を、全力で信じたのだと思います。
私も和さんと同じく、娘をもつ母親です。母親になる前は「あの時こうしていれば良かった、ああしておけばよかった」と後悔することも多かったのですが、娘が産まれて、自分の生き方を全肯定できるようになりました。あの時、ひとつでも別の選択をしていたらこの子は産まれていなかったかもしれない、そう考えたら、人生の選択はすべて正解だったと思えたんです。そのくらい子供という存在は大きい。和さんもきっと、娘さんを授かって、自分の選択は正しかったんだと確信できたんじゃないかな。