段々と大分に移住した事実が地元でも認知されるようになった
「小さなスナックのつもりで行ったらかなり大きなラウンジで驚いたんですが、綺麗なママが出てきて『ともちゃ~ん、働いてくれるん? 嬉しいわ~』って。ママはノリノリに見えるけれど、ピシッと言いたいことははっきり言うタイプで、お店のノウハウだけでなく喋りの勉強になるんじゃないかと思えるくらい楽しくて。なによりお店の雰囲気が明るくて健全だった。そこからは月1~10日くらいのペースで、約1年ほど働きました。別に隠れてやっていたわけじゃないんですけど、(笑福亭)鶴瓶さんがラジオ番組で『あいつ今、大分のスナックで働いてるらしい』なんて言ったもんだから(笑)、そこから記者さんが押し寄せてくるようになってしまったのは困りましたね。やたらプライベートのことを聞いてくる人や、鞄の中にチカチカ光る録音機が見えたり(笑)」
ラジオをきっかけにネットでも中島の噂は広がり、そこから地元客も中島をひと目見ようとスナックにやって来るようになったという。
「記者の人や一見さんばかりが続いて一時期店内が荒れてしまい、常連さんやお店に迷惑がかかってしまうと思って、ママに『もうやめさせていただきます』と言いました。ママは本当に潔い人で『もう何でも来るなら来いだよ』って言ってくれたので助けられました。そうしたら今度は地元のお客様が『本当におるんやな~頑張っちょんな』って感じでお店に遊びに来てくれたんです。そこで多くの方と知り合えたのは大きかったですね。私が地元の皆様にご挨拶に伺わずとも、皆さんの方から来て下さったので」
なかでも大きかったのが、大分の「お祭りの会」の會長との出会いだったという。
「神輿の会の本音會(ほんねかい)の17代目會長さんと出会えたことで、別府新聞社に繋いでくださって、『中島知子が大分に溶け込めた』という記事まで書いていただけたことは本当にありがたかったです」
「東京に戻ることは考えていません」
移住して1年が経とうとするころ、別府で歴史ある新聞社「今日新聞」にも中島の記事が掲載された。
「別府の今日新聞に私が移住した話が取り上げられた時は嬉しくなって、何十部も買って別府や大分で仲良くなった方に配りまくりました。しかもこの時は新聞社の社長自ら取材していただき応援して下さった。本当にあったかい方でね。取材後も別府の朝見神社の夏祭りで司会ができるように尽力してくださったことは、一生忘れないと思います」
そこから大分に住む人たちにも“中島知子が大分に移住した”という事実が認知されるようになり、ついには地元の催し物に「タレント」として呼ばれるようになった。