守旧派・梶山
幹事長の梶山も金丸逮捕の逆風をしのぐ方法を考えていた。金丸の議員辞職後の派閥後継に小渕恵三を担いで小沢・羽田と争い、守旧派のレッテルを貼られながらも、派閥のオーナーである竹下登の力をバックに中堅以上の議員の多くの支持を固めた。その結果、宮澤から幹事長に指名された梶山は、羽田派も加えた「挙党一致」の推進体制を作り、法案審議の主導権を握ることに成功していた。羽田・小沢がどんなに改革、改革と党内を煽っても、肝心の法案を成立させられなければ、単なる「展望なき脱党」にしかならず、それでは若手議員はついていけない。
野党も本音では、一定の議席が確保できる中選挙区が望ましいはずだ。少なくとも、社会党国対委員長の村山富市や公明党の神崎武法、民社党の神田厚ら、梶山が国対委員長時代に関係を培った野党議員たちは、それぞれの党内事情はあっても、中選挙区を変えないほうが望ましいと思っているはずだった。
このパイプを使って、「慎重審議」に徹し、会期末まで協議して時間切れで廃案にするか、継続審議にすれば、すべては仕切り直しになる。
「ほふく前進しながら、敵のトーチカを一つ一つ落としていくようなもんです」
梶山は、野党対策にあたる議員たちにそう指示していた。そんな中、やはり政治改革の圧力に追い詰められた首相・宮澤も、局面展開を図って予想外の一手を繰り出した。
四月六日の朝、羽田孜のもとに、宮澤から一本の電話が入る。病気で渡辺美智雄・外相が辞任することになり、その後任に羽田を起用したいという打診だった。羽田と小沢は直ちに協議し「羽田を閣内に取り込んで動きを封じる。ダメなら、羽田派を非主流派に追いやり徹底的に干す」のが狙いだと見て拒否することで一致した。
ところが、急遽幹部を集めて協議したことや、辞退を決めながら羽田が宮澤に会いに行ったことから、「羽田は迷っているのではないか」「派閥が揺れているのではないか」などの憶測を呼ぶことになった。
本会議を挟んで、官邸で二時間以上も粘った宮澤だったが、最終的に羽田が断わると、あっさりと武藤嘉文の起用を決めた。最初から羽田が受けないことを織り込んでいたとか、権力闘争に不慣れな宮澤がポストをちらつかせて失敗したのだとか、様々な見方が乱れ飛んだが、結局宮澤の真意は今一つ判然としなかった。
むしろ、はっきりしたことは、これによって羽田と小沢が宮澤首相のもとで政治改革を実現する、という道は事実上なくなったということだ。それが何を意味するか、宮澤自身が理解していたかどうかは別問題だが、翌日の朝日新聞に掲載されたインタビューでの羽田の言葉が何よりはっきり言い表していた。
「ルビコン川を渡り、橋を焼き切っちゃった」
固唾を呑んで成り行きを注視していた江田は、翌日の記者会見で「羽田が入閣を断わったことで、政界再編のゴングが鳴った」と興奮気味に話した。
テレポリティクス
四月一一日新宿区河田町。東京女子医大の向かい側にお台場に移転する前のフジテレビ本社があった。どこのテレビ局もそうだが、正面玄関を入ると迷路のような曲がりくねった廊下を進みエレベーターを乗り換えながらスタジオに入る。
この朝、小沢は、フジテレビの『報道2001』のスタジオにいた。
日曜日の朝は、この『報道2001』やテレビ朝日の『サンデープロジェクト』など生放送の情報番組が人気を呼び、「旬の」政治家が競うように出演していた。小沢も、この頃からこうしたテレビ番組をはじめマスコミのインタビューにも積極的に応じるようになっていた。
番組の中で小沢は、「政治改革関連法案の成否は、宮澤首相のリーダーシップいかんにかかっている。もしできずに会期延長とか、継続審議ということになれば、首相が不退転の決意でやらなかったということだ」と言い切った。そして、もしできなければどうするのか、という司会者の問いに、「非常に深刻な問題として仲間内で議論しなければならない」と新党結成に向かう可能性を明言した。
羽田を引き付けて、踏み絵を踏ませようとした宮澤に対する小沢の公共の電波を使った「反撃の狼煙」でもあった。
小沢が言う権力闘争は、かつてのカネとポストで多数派を獲得する派閥の闘いから、マスコミ、特にテレビを使って、国民に直接メッセージを届け、それによって多数の支持を得て権力を奪取しようという姿に変わっていた。テレポリティクスと呼ばれる時代が始まっていたのだ。