「それなら高橋に任せよう」
「私は高橋兄弟のどちらもよく知っています。金を持っているのは弟で、兄貴のハチは弟のノリにおんぶに抱っこに哺乳瓶だったね。電通のサラリーマン時代から運転手付きの自家用車に乗って会社に通っていたけど、会社から費用が出るわけもなく弟の金でしょう。森さんにハチを引き合わせたのは私です」
そう打ち明けるのは、元労相の山口敏夫だ。改めて紹介するまでもなく、高橋兄弟とは治之、治則のことで、ハチ、ノリと呼んできた。弟の治則はかつて不動産会社イ・アイ・イ・インターナショナルを率いて1兆円の資産を誇り、“環太平洋のリゾート王”と称されたバブル紳士だ。山口はその高橋兄弟の政界指南役を自任する。
「あの兄弟は私との関係で安倍晋太郎さんなんかと親しくなったんだからね。森さんも安倍さんの子分だったから、私が森さんとハチをつないだようなもんで、永田町のハチの人脈はぜんぶ私がつくってあげたんだよ。それを使ってあれほどのスポーツビジネスを開拓したんだから、ハチも大したものだよ」
安倍晋太郎率いる安倍派は、バブル崩壊直後の1991年5月、派閥の領袖が膵臓がんで物故すると、分裂する。安倍派四天王の加藤六月、三塚博、塩川正十郎、森喜朗のうち、三塚と加藤が後継を争った「三六戦争」の結果、三塚・森連合が加藤に勝利した。その後、森が派閥を継承し、首相に昇りつめる。今の安倍派の状況に重なる部分もなくはないが、一方で電通の高橋が森に近づいていったという。
高橋と森との交友には、森の地元石川県の有力支援者がひと役買っているようだ。後援会の幹部が打ち明けた。
「電通の高橋さんと森先生が急速に親しくなったのは、20年以上前の出来事がきっかけでしょう。日本の私大を出て米国の専門学校に留学していた石川県のレジャー業者の息子が帰国したいと言い出し、森先生に就職の斡旋を依頼したのです。で、森先生が旧知だった電通の成田(豊)社長に相談したところ、『それなら高橋に任せよう』となった。たまさか電通で中途採用の枠が6人あって、運よく就職できたわけです」
成田は東大法学部を卒業して1993年に電通社長、2002年から会長を歴任した“広告業界の天皇”だ。森とも入魂の間柄だった。高橋は政界人脈を駆使しながらその成田の側近として、スポーツ事業局で出世街道を駆け上がっていった。2002年のサッカー日韓W杯の仕掛け人ともいわれる。