こうしたなか、新しいリーダーを求める風潮のなかでさっそうと登場したのが、ナポレオン1世の甥(弟の息子)にあたるシャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト(通称ルイ・ナポレオン)であった。彼はまず、民主的選挙で王に代わる地位であるフランス共和国大統領に選ばれた。そして彼はナポレオン1世の根強い人気の継承者となり、クーデターを起こして独裁権力を確立。さらに上院に根回しして帝政復活提案をさせ、これを国民投票にかけて圧倒的多数を獲得、皇帝就位を宣言しナポレオン3世を名乗った。「3世」としたのは、伯父ナポレオンの息子が「2世」を名乗っていた(当時すでに死亡していた)からである。こうして一八五二年から「第二帝政」が始まった。
ナポレオン3世は、後にカール・マルクスから「空想的社会主義」と批判されたフランス人の思想家サン・シモンの影響を強く受けていた。簡単に言えば、国家のもっとも重要な役割は産業の育成あるいはインフラの整備であり、それが進められ社会全体が豊かになれば階級間の対立もおのずと緩和されるというもので、このあたりが資本家と労働者は完全な敵対関係であるとしたマルクスから「空想的」と揶揄されたわけだ。
しかし、ナポレオン3世はその思想にもとづき金融制度の整備や鉄道の建設、また下水道の整備などを総合的に組み入れたパリ改造計画を積極的に進めた。とくに国民の支持を得たのが、当時世界で初めて首都ロンドンで万国博覧会を開催したイギリスに続いて、一八六七年にパリ万博を開催し大成功を収めたことだ。
この万博にはナポレオン3世と親交を深めていた江戸幕府最後の将軍徳川慶喜も招待されており、明治維新(1868年)寸前の情勢のなかで、慶喜は弟の昭武を代理として送りナポレオン3世に謁見したこと。随行の渋澤栄一らがパリの都市としての完成度を見て仰天したこと。またその万博会場において薩摩藩が五代才助(友厚)の画策によって独自のパビリオンを建て、幕府に対抗する存在であると世界にアピールしたこと。その結果幕府がフランスから受けるはずの借款が潰されてしまったこと等々は、『逆説の日本史 第二十一巻 幕末年代史編IV』に詳述したところだ。
クリミアはロシア固有の領土に非ず
戦争に勝つことも君主としての人気を高めるためには絶対必要なことだ。そこでナポレオン3世は、イギリスと組んでロシアに対抗したクリミア戦争で勝利を収めた。クリミアは最近では二〇一四年にロシアのウラジーミル・プーチン大統領がウクライナ共和国侵略に先立って強引に併合したことで知られるようになったが、プーチン大統領の「クリミアはロシアの固有の領土」だという主張は、歴史的に見れば真実では無い。クリミアは黒海とアゾフ海に挟まれた半島だが、この地を領有すればロシアを攻略しやすくなることは事実だ。だから、モンゴル人やイスラム教徒が建てたオスマン帝国がクリミアを支配していた中世においては、ロシアの発展は阻害された。
近代になってロシア帝国が強大化すると、オスマン帝国を排除してクリミアを支配できるようになった。そこでロシアはクリミアを軍事拠点としオスマン帝国や西ヨーロッパ方面へ進出しようとした。それに歯止めをかけたのがクリミア戦争で、ロシアの勢力拡張を嫌うイギリスがフランスと同盟しオスマン帝国を支援した。
オスマン帝国は支配層はイスラム教徒だが、傘下のギリシア地区(独立国家では無い)などに多くのキリスト教徒がいた。きわめて大づかみに言えば、ローマ帝国が東西に分裂したあと、ローマを首都とする西ローマ帝国とコンスタンチノープル(コンスタンチノポリス)を首都とする東ローマ帝国に分裂した。その後、西ローマはフランス、イギリス、スペインといった民族国家に分裂したが、東ローマの「西半分」はオスマン帝国、「東半分」はロシア帝国となり、オスマン帝国は首都と定めたコンスタンチノープルをイスタンブールと改めた。「コンスタンチン大帝の都」が「イスラム教徒の都」になったわけだ。