ダルビッシュ有投手の後輩だった
この11月上旬、20時過ぎ。取材会場である東京・四谷の雑居ビルの会議室に現れたタイキ氏は、モノトーンのアニマル柄シャツに、フェイクレザーのフレアーパンツという姿。トレードマークのサングラスも変わらずだったが『X』店でフロアーを闊歩していた、あのミステリアスかつ近寄りがたい独特のオーラは薄れ、スタイルがいいハンサムではあるが、どこか「気のいいあんちゃん」といった様相でもあった。
タイキ氏は、小さなパイプ椅子に長身を縮めるようにして座り「なんでも聞いてください」と胸襟を開いて話し出すのだった。
タイキ氏は1991年2月15日、関東近郊のベッドタウンで生まれた。両親がともに高齢になってから授かった一人っ子。幼少期の自分のことを「仲がいい友達がサッカーをやるから自分は野球をやる、と母にいうような変わった子供だった」と言う。そんなタイキ氏の幼年期の思い出といえば「父との野球」。
「父の教育方針は『やるなら半端なことをするな』。野球に関しても単なる遊びではすまされなかった。小学校では学内の野球チームと掛け持ちでクラブチームに入り、中学では毎日往復2時間以上を自転車で移動してまで学外のクラブチームで活動。ちょっと喧嘩もするけれど、法に触れるような悪さはせず基本的には野球に打ち込む日々でした」
努力の結果、タイキ氏は推薦によりダルビッシュ有投手を輩出した野球の名門校である仙台の東北高等学校に特待生として進学し、野球一筋の青春を送ることとなる。そんな彼に大きな転機が訪れたのは高校2年生の時だった。
「“プレーヤー”から、“マネジャー”になったんです。僕のポジションはずっとピッチャーだったんですが、同期にどうしても叶わないほどの実力を持った選手がいた。考えた結果、このチームが甲子園に行くためには、ピッチャーは彼だけで充分だ、自分がそこに割って入ろうとしてもチームの底上げにはならないと思った。目的のために自分がやるべきことを考え抜き、選手を辞める決断をしました」
タイキ氏は選手の座を捨て、監督の片腕となり「裏方」として働いた。やがてヘッドコーチという立場になったという。彼に「自分がエースとして輝きたいと思わなかったのか?」と聞くと、不思議なことを聞く、という様子で「僕が投げるのでは甲子園で“上”は目指せませんから」とキッパリと答えた。
裏方としてのタイキ氏の働きもあってか、在学中、チームは甲子園に出場した。大学でも野球のチーム作りに貢献したいと帝京大学に進学し、硬式野球部の門を叩くが、そこでは彼が思い描いていたような活動はできなかった。
「大学の野球部では、学生のヘッドコーチは必要とされていなかったんです。監督のカバン持ちみたいなことばかりで、気が付いたらパソコン上でExcelばかり見ていて、野球に関わったという感覚がなかった。なんのために進学したのかと、1年生の半ばで退部しました」
それからはアルバイトの日々だ。タイキ氏の中ではその頃から漠然と「起業したい」という思いが芽生えていた。ガソリンスタンド、大工、庭師、スカウトと様々なバイトを重ね、起業資金を集めた。