堺の奮闘で演劇部の部員は20名ほどの大所帯になり、九州大会に出場。堺が書き下ろした脚本は同大会で「創作脚本賞」を受賞した。
早稲田大学第一文学部に進学するとさらに芝居にのめりこみ、官僚ではなく役者を志すようになった。多くの俳優や劇団を生んだ同大学の「演劇研究会(劇研)」に入部する際の心境を『婦人公論』(2005年7月7日号)で堺はこう振り返っている。
《ゆくゆくは大学を中退することになり、親からの仕送りもなくなると確信していました。経済的に孤立した状態で、細々とバイトで食いつなぎ、一生収入が見込めないイヤ?な大人になるんだろうな、と(笑)。そこまでシミュレーションしながら、出家するような覚悟で入りました》
劇研では厳しい稽古に耐え、頭を五分刈りにして決意を示した。シミュレーション通り3年で大学を中退し、1992年、劇研を母体にした劇団「東京オレンジ」の旗揚げに参加し看板役者となる。
「中退を事後報告された両親は激怒し、息子を勘当しました。仕送りを断たれ生活に困窮した堺さんは道に咲くタンポポにポン酢をつけて食べたこともあるそうです。それでも舞台での人気は抜群で、“小劇場のプリンス”と呼ばれ追っかけファンも多かった。芸能事務所からスカウトが殺到しましたが、のちに所属する田辺エージェンシーはいい返事を聞くまでに5年も待たされたそうです」(前出・芸能関係者)
(第2回へ続く)
※女性セブン2023年9月28日号