作家の井沢元彦氏による『逆説の日本史』
ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。今回は近現代編第十六話「大日本帝国の理想と苦悩」、「大正デモクラシーの確立と展開 その11」をお届けする(第1476回)。
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一九一九年(大正8)七月十九日の、日中両軍が衝突した寛城子事件。事件が起きた場所の地名が寛城子なのだが、日本近代史におおいに関心がある人でも、この地名が本来どこを指すのか知る人は意外に少ない。とくに、これまでこの地名をご存じ無かった方は、次の百科事典の記述をご覧いただきたい。ただし、項目は「寛城子」では無く「長春」なのだが。
〈長春 ちょうしゅん Chang chun
中国、吉林省中部にある同省の省都。伊通河が市内を貫流する。京哈線(北京~ハルビン)と長図線(長春~図們)、長白線(長春~白城市)の分岐点にあたる。清末、漢族移住者が増加したため1800年(嘉慶5)、現在の市の南郊にあたる長春堡に長春庁を置いたが、25年(道光5)、寛城子(現在の長春市)に治所を移したのが始まりで、88年(光緒14)には長春府に昇格、1913年県となり、32年日本の傀儡(かいらい)政権の〈満州国〉誕生に伴い、その〈首都〉として新京と名づけられ、市制を敷いた。これより先1906年日露戦争後、日本が南満州鉄道(満鉄)経営に乗り出した結果、長春は日露の鉄道権益の境界となり、08年日本はここに満鉄付属地を設け、また10年旧市街との間に商埠地を開いた。〈満州国〉の〈首都〉となって以後、近代的都市計画にもとづく管理中枢および支配者居住区とスラム化した中国人街との二重構造をもつ都市になったが、本質的には消費都市であった。日本の敗戦による傀儡政権の解体後、長春の原名に復したものの第3次国内革命戦争により荒廃した。しかし解放後吉林省の省都となり、第1自動車工場をはじめ、トラクター、電機、化学、窯業、食品工業が建設され、また吉林大学、東北師範大学や多くの科学研究機関が設けられた。現在では面積1万8900平方キロメートル(うち市部1116平方キロメートル)、人口323万(2000)の大都市に成長している。〉
(『世界大百科事典』平凡社刊 項目執筆者河野通博)
寛城子は後に日本が「建国」する満洲国の首都となった新京であり、現在は吉林省の省都・長春なのである。じつはこの地名、日本が日露戦争に勝ち、ロシアが中国本土に建設した鉄道の一部の租借を受け南満洲鉄道(通称・満鉄)が誕生したときから存在した。たとえば『国史大辞典』(吉川弘文館刊)には、次のような記述がある。
〈日本は日露戦争の戦線進展とともに拡大した後方占領地の兵站と軍政と守備のため、明治三十七年(一九〇四)八月に遼東守備軍を置き、翌三十八年五月満洲軍総兵站監部と改められたが、それらは系譜的に関東軍の前身とはいえない。同年九月、日露両国はポーツマスで講和条約を結び、勝者日本は遼東半島南端の関東州の租借権と、長春(正確には寛城子)―旅順間の従来の東清鉄道の南部線(のちの南満洲鉄道、沿線と支線の炭鉱に関する権利を含む)とを、ロシアから譲渡された。また追加約款により、鉄道線保護のため一キロあたり十五名(総計一万四千四百十九名)以下の守備兵を置く権利をも得た。これらの権利はこの年の十二月の満洲に関する日清条約により清国の承認をも得た。〉
(「関東軍」の項目より一部抜粋。項目執筆者島田俊彦)
そうなのだ。明治の時代から、いやもっと昔から日本が得た「満鉄」の一方の起点は長春では無く、寛城子だったのだ。それを正確に記述しないのが日本の新聞報道(つまりマスコミ)、そして歴史学界なのである。だから「寛城子? それどこ?」となるし、「満洲」事変の重要性は認識しても「寛城子」事件の重要性はわからず、事典にも年表にもあまり載っていない、などというバカな話になる。
ちなみに寛城子はたしかに長春の一部ではあったが、中心街からは離れた西北の郊外にある(地図参照)。ただし、この地点は前掲の『世界大百科事典』の記述にもあるように、京哈線、長図線、長白線の三つの鉄道路線が交差する交通の要衝であった。現在の感覚から言えば、なぜそこに省都の中心部を置かないのだと思うかもしれないが、そこがまさに現代の感覚、つまり鉄道ができて以後の感覚なのである。
それ以前の都市は、たとえば中国だと外敵から守りやすい地形であるとか、鉄道では無く街道の交差する地点であるとか、あるいは風水上縁起がよい場所などに造られる。一方、鉄道は鉄道で土地の凹凸や河川や山岳の位置などに左右されるから、古代からの都市と交通の要衝が一致しないことがある。とくに中国のような古い歴史を持つ国であれば、余計そうなるわけだ。
