日本列島でも、ほぼ中央にある滋賀県の交通の要衝と言えば北陸線と東海道線が交わる米原のはずだが、米原が重要な都市になったのは鉄道建設以降であり、それ以前は琵琶湖の水運を利用できる大津が中心都市であった。現在の県庁所在地も大津市である。
逆に言えば、この地に新国家を建国しようと考える人間にとっては、寛城子はじつに魅力的な土地であったということだ。古い町の中心街に新しい政庁を作ろうとすれば、古い建物は取り壊さなければいけないし、当然立ち退き問題も出てくる。住民の反撥もあるし、時間もかかる。しかし、「駅前」に広い「空地」があるなら話は別だ。魅力的というのはそういうことである。だから日本軍も長春中心地では無く、郊外の寛城子に駐屯していた。
もちろん、前回紹介した三つの中国軍閥も新しいセンスの持主たちだから、この地点を重視していた。兵員の移動も補給も敏速に行なえるからだ。とくに張作霖は吉林省の隣の奉天省(遼寧省)が拠点だったこともあり、この地を虎視眈々と狙っていた。この時期、吉林省のトップである督軍は安徽派の孟恩遠である。
孟は節操の無い「コウモリ」のような男で、袁世凱「皇帝」には一等伯爵として忠誠を誓い、袁が病死すると実力者段祺瑞にしっぽを振って安徽派に属したが、例の張勲復辟の際はその陰謀に加担した。当然、復辟失敗で失脚するはずが、独特の政界遊泳術で吉林督軍に復帰した。だが、こんな男は誰も信用しない。
吉林督軍の座を狙っていた張作霖にとっては絶好のチャンスだ。張は大軍を寛城子に派遣し、孟恩遠軍を追い落とす機会を狙っていた。孟が勢力を回復できたのは、吉林省の民がよそ者で馬賊上がりの張よりも、民国軍の正式な軍人である孟を支持していたからだ。つまり、奉天派の張作霖軍と安徽派の孟恩遠軍が寛城子でにらみ合っていたのである。