殺されたのは「陛下の赤子」
では日本軍はどうかと言えば、中立の立場を保っていた。じつは、これより三年前の一九一六年(大正5)八月、同じ奉天省の鄭家屯(現・吉林省双遼)で日本人民間人と中国兵の口論がケンカとなって日中両軍が銃撃戦となり、日本側に十数人、中国側に四人の死者を出した事件があった。鄭家屯事件という。ちょうど大隈重信内閣が蒙古独立派のパプチャップを使って第二次満蒙独立運動を援助していたころの話だ。
日本軍は一時鄭家屯を保障占領し中国側にさまざまな要求を突きつけたが、結局中国側の陳謝などでことを収めた。しかし、これ以後に満鉄の拠点などに陸軍部隊を配置することが可能になった。「治安がよくない」ことは事実だからである。しかし、あくまで「在留邦人の保護」が目的だから、派遣された部隊は五十名程度の少人数で、彼らは奉天派とも安徽派とも対立せず、むしろ二つの陣営との交流を保っていた。
ところが、こうした状況のなかで吉林軍、つまり安徽派の孟軍の兵士が突然日本の民間人に暴行し、それを制止しようとした日本人巡査も重傷を負わされ(のちに死亡)、とうとう日中両軍の兵士が銃撃戦におよぶことになってしまった。前回紹介した『国史大辞典』の「寛城子事件」の項目(項目執筆者林正和)では、「日本軍は衆寡敵せず窮境に陥り、長春から救援を求め辛くも活路を開いたが、戦死者十八名、負傷者十七名をだした」という記述のあと、次のように続けている。
〈翌二十日長春に日本側高山公通守備隊司令官・森田寛蔵長春領事ら、吉林軍側高士濱師長らが参集し協議の結果、吉林軍を付属地外三十支里に撤退させるなどの協定(暫定治安維持法)が成立、ついで九月八日小幡酉吉駐華公使が中国政府に、死傷者への慰恤金、直接責任者の処罰など六項の要求条件を提出し、爾後北京・奉天・長春などで交渉が行われ、十二月に解決した。この条件は五・四運動直後の中国民衆に漲る排日気運の高揚を意識して、死傷者の数に比し温厚なものであった。同事件で孟督軍は革職され、これによって張作霖は、宿願の東三省制覇を成就した。〉
おわかりのように、この事件で一番得をしたのは張作霖である。孟恩遠は追放され、結局張作霖がこの要衝を手に入れたからだ。そこで、この事件は張作霖が仕組んだ陰謀ではないか、という説が昔からある。つまり、吉林軍に潜入していた張作霖のスパイが故意に発砲し、当然憤激して応戦してくる日本軍との銃撃戦に誘導したのではないか、というものだ。たしかに、日本軍はどちらの軍とも対立していなかった。そもそも現地の日本軍と中国軍は対立する理由が無いし、それどころか将校同士は「酒を酌み交わす仲だった」という話も伝えられている。
実際、民間人そして巡査への暴行のあと、現地の日本人将校は吉林軍の本営に談判に赴いている。つまり、日本側は話し合いで解決しようとしていたし、話し合いで解決できるとも信じていた。だから少人数で吉林軍を訪ねたところ、話し合いの途中でいきなり銃撃された。吉林軍に張作霖のスパイがいて平和的な解決を妨害したと考えれば話は合うが、中国側もその疑いは持っていたものの今日に至るまで「証拠が無い」ということで、張作霖黒幕説はあくまで「説」のままである。
あたり前の話だが、人間は「証拠が無い」からといって納得する動物では無い。とくにこの事件の場合、吉林軍には日本軍と対立する理由が無いし、むしろ銃撃戦などすればデメリットのほうが大きい。そして結果として孟恩遠が追放され、張作霖が念願の寛城子、そして吉林省を手に入れた。「その事件によってもっとも多くの利益を得た者が犯人である」というのは単なるミステリーの原則であるだけで無く、現実的な歴史の法則でもある。