イチローズモルトで使用するモルトの一部は、大麦をフロア(床)で発芽させるフロアモルティングの手法をとる。スコッチウイスキーの伝統的な製法だ
20年ものの原酒を廃棄するわけにいかない
肥土さんはこの時期をどう過ごしたか。先にも書いたが、ウイスキーの売れない時代だった。それでも品ぞろえのいいバーはあったし、知識経験ともに豊富なバーテンダーたちがいて、今に比べると遥かに安く高級シングルモルトを飲むことができた。私などは、すっかりウイスキーにハマり込んだ。『ウイスキーヴォイス』のライターであることで別の雑誌のバー特集を任せてもらうこともあったのだが、取材経費とは別に自腹を切ったバーの飲食代が原稿料を上回るという事態が発生した。私のところは、貧乏家庭の子だくさんで、子が3人もあるのに飲み代がギャラを上回った。私は妻に、弁明のしようもなかった。
それより、すごいことになっていたのが、肥土さんだ。21世紀に入る頃、昼間は日本酒と焼酎の営業、夜はバーを回って自社のウイスキーを広めながらモルトウイスキー修業をする日々を送りながら、ついに、大きな決断を迫られた。
「父の会社が人手に渡りまして、新しいオーナーは日本酒や焼酎などの回転の早い商品は残したいが、熟成に時間がかかり樽の保管場所も必要とするウイスキーには関心がない。おまけにウイスキーは売れていない。だから、一定期間に引き取り手がないなら廃棄すると言うのです。たしかにウイスキーはオジサンの酒と言われ全体で見れば売れていなかったけれど、バーには目を輝かせながら飲む若い人や女性たちがいた。その姿を見ていた私は、廃棄などとても承服できない。当時の会社では1980年に銅製の本格的なポットスチル(蒸留釜)を導入してウイスキーの蒸留を始めていたので、西暦2000年頃には熟成期間が20年ものの原酒もあったわけです。そんな貴重な酒を見捨てるなんてできない。この酒を世に出すことが自分の役目だと強く思った」
それが、肥土さんの酒人生の変わり目だった。肥土さんは、約400樽のウイスキー原酒の引き取り手探しに奔走し、福島県の笹の川酒造にたどり着いた。ここに原酒を預け、2004年、ベンチャーウイスキーを設立、翌年には、預けた原酒をブレンドした初代の「イチローズモルト」をリリースした。この1本のウイスキーには、肥土さんが死守した熟成20年ものの原酒もブレンドされている。原酒を見捨てるか、それとも自分が守り抜くか。たったふたつしかなかった選択肢から、肥土さんは、ウイスキーを守り抜き、そこに人生を賭けることを決断したのである。
肥土伊知郎さんは、2005年のこのとき40歳。ちなみに私が『酒とつまみ』という世にも稀な雑誌を仲間うちで創刊したのは2002年の秋で、そのとき39歳だった。
肥土さんと初めて会ったのは、初代「イチローズモルト」が世に出た3年後の2008年の春先のことである。「イチローズモルト」はバーで評判になっていた。肥土さんが連夜バーを巡って売り歩いた最初の「イチローズモルト」は600本。これを売り切るのに、丸2年かかったという。
