西城秀樹一覧

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デビュー50周年の西城秀樹さん 今も歌い継ぐ歌手たちと“団結”を続けるファンの姿
デビュー50周年の西城秀樹さん 今も歌い継ぐ歌手たちと“団結”を続けるファンの姿
 今年は西城秀樹さん(享年63)デビュー50周年のメモリアルイヤー。同じ時間を過ごした歌手たちは、今も西城さんの曲を歌い、語り継いでいる。そんな歌手たちについてコラムニストで放送作家の山田美保子さんが綴る。 * * * 7日、中野サンプラザで行われた「神野美伽コンサート 2022『さぁ、歌いましょう!』」を観る機会に恵まれた。 約2年半ぶりの東京公演。神野はMC中、何度も「この2年半」という言葉を口にし、コロナによって寸断された人間関係や「まさかの」戦争などについて言及し、平和を強く訴えた。 2年半の間には、自宅にピアニストの小原孝氏を招き、神野が愛用するピアノを使って、「お家de音楽会~神野美伽&小原孝~」なるYouTubeを開設し、頻繁にアップしている こうした“いいこと”もあれど、2年前には同所で予定されていた公演がコロナで中止に。今年3月には腰椎椎間板ヘルニアによる右足急性麻痺の診断を受けて緊急手術、約2週間、入院。ギプスは先月末に取れたが両足に治療用テープを巻いており、現在も治療、リハビリ中だ。舞台を駆け回ったり、和装ながら両足を開いて踏ん張ったりしながら全身で歌う神野が以前のように歌えるのか否か。会場を埋め尽くしたファンや、これまで楽曲を提供してきた歌謡界の重鎮らが見守るなか、神野は最高のステージを務めあげた。本人はスポーツ紙の取材に「(完全復帰には)程遠い」と答えている。 本当に色々あった2年半。さまざまな想いが彼女に押し寄せ、時折、感極まる場面もあったのだが、客席からもすすり泣きが聞かれたのは、第1部の8曲目に選んだ『めぐり逢い』前後のMCのときだった。神野美伽が歌い上げた秀樹さんの“遺作” この曲は、カナダ人のピアニスト、アンドレ・ギャニオンのインストゥルメンタル曲にオリジナルの日本語詞をつけたバラード。2018年5月16日、急性心不全のため天に召された西城秀樹さんの事実上の遺作である。 神野と西城さんは、以前、同じ『芸映プロダクション』に所属していた。『東西ちびっこ歌マネ大賞』優勝をきっかけに、10歳でスカウトされた神野にとって10歳上のお兄さん的存在であり、大スターでもあった西城さんのステージは「何度も行かせていただいた」そう。西城さんのライブの代名詞であるスタヂアムコンサートも『大阪球場』で観ているという。 そんな憧れの西城さんが脳梗塞で倒れ、その後、懸命にリハビリをしている様子を追いかけたテレビ番組を「見た……、見てしまったんです」と言った後、沈黙した神野。「秀樹さんは、もっともっと歌いたかったんだと思います…」「秀樹さん、今年がデビュー50周年なんですよ…」と言い、神野は再び言葉を詰まらせた。 そんな西城さんへの特別な想いをこめて、ピアノの伴奏だけで歌い上げた『めぐり逢い』。間奏でワンフレーズだけ『YOUNG MAN(YMCA)』のメロディが弾かれたときには、私も我慢ができなくなり、泣いてしまった。野口五郎「生きていく人に迷いも残した」「西城秀樹」の名前は、5月29日オンエアの『ボクらの時代』(フジテレビ系)でも何度も出てきた。野口五郎×岩崎宏美×大竹しのぶが揃った回だ。野口は「新御三家」で秀樹さんと苦楽を共にし、岩崎は『スター誕生!』(日本テレビ系)で「最優秀賞」に輝き、前述の『芸映』にスカウトされ所属していた。「亡くなっていく人って、生きていく人に迷いも残していったりする」とは野口。岩崎は「五郎さんのコンサートに行ったときに秀樹(年長者や先輩をニックネームや“ちゃんづけ”で呼ぶことが多い岩崎は、秀樹さんのことも親しみをこめて、こう呼んでいる)の声を録音したものを五郎さんが持っていて」と言い、二人の歌声がステージで流れたときには、「まったく別物になっていて、すごく素敵なものだった」「西城秀樹ってすごかったんだなっていうことも、みんな認識できるし」「(五郎さんは)しょっちゅう、(秀樹さんの)お墓参り行ってるし」と変わらぬ友情エピソードを紹介した。 野口は、「もしこれ逆だったら、絶対あいつ(墓前に)来てないなって思うんだけど」と落としつつ、追悼番組の際、涙が止まらなかった野口の隣で、「あとで見て気づいたんだけど、しのぶちゃんが手を握ってくれてたんだよね」と言い、大竹に感謝していた。常に“団結”している秀樹ファン この番組の後、フジテレビには、「西城秀樹さんの話をしてくれて、ありがとうございました」というメッセージが多数送られてきている。もちろん秀樹さんのファンの皆さんからのものである。 私は秀樹さんより2学年下ということで、“新御三家世代”の一人。歌番組の公録や生放送が頻繁に開催されていたNHKホールや渋谷公会堂に通い詰めた時代もある。そのときからずっと思っていたのは「秀樹ファンは団結している」ということ。その印象は、秀樹さんの告別式が行われた青山葬儀所でも変わらなかったし、妻の木本美紀さんが『蒼い空へ 夫・西城秀樹との18年』(小学館)を上梓したときにも、写真集『HIDEKI FOREVER blue』(集英社)が発売されたときも同様だったのである。 その都度、私は関連コラムを書いているが、秀樹さんのファンの方からSNSで御礼のメッセージが届いたり、直筆のお手紙をちょうだいしたりした。 野口五郎は『ボクら~』の中で明かした「生きていく人に迷いを…」は、自身のコンサートで秀樹さんの曲を歌っていいものか迷ったり悩んだりすることを意味していた。 だが、そんな野口に対して秀樹さんファンの多くが「歌ってくれて、ありがとう」と感謝を伝えてくれるというのである。 それが「演歌第7世代」と呼ばれる若手の歌手に対しても同様だというのだから驚く。音楽番組やライブで秀樹さんの曲を必ず歌う新浜レオンは、特に『ギャランドゥ』や『情熱の嵐』を得意としている。5月2日、「おかちまちパンダ広場」で行われた新曲リリース記念イベントのセトリにも、デビュー曲『離さない 離さない』と新曲『ジェラシー~運命にKissをしよう~』との間に『ギャランドゥ』を入れたのだ。 それを知った秀樹さんファンから「多くのリアクションと御礼のコメントをちょうだいしています」と新浜と彼のスタッフは恐縮すると共に、亡くなって4年が経っても、語り、歌い継がれる大スター、西城秀樹さんへのリスペクトと熱い想いを新たにしているという。 デビュー50周年を彩るビデオコンサートや7枚組DVD BOXも、もちろんファンの皆さんは一致団結して応援し支えている。そして、野口五郎、岩崎宏美、神野美伽、新浜レオンら、切磋琢磨してきた同年代の歌手や妹のように可愛がられた歌手、そして息子のような年代の後輩歌手らが語り歌い継ぐ西城秀樹さんは「永遠」だ。◆山田美保子『踊る!さんま御殿!!』(日本テレビ系)などを手がける放送作家。コメンテーターとして『ドデスカ!』(メ~テレ)、『アップ!』(同)、『1周回って知らない話』(日本テレビ系)、『サンデージャポン』(TBS系)などに出演中。CM各賞の審査員も務める。
2022.06.10 07:00
NEWSポストセブン
西城秀樹さんが逝去してから早2年(時事通信フォト)
西城秀樹さんデビュー50周年DVD ファン感涙必至の「幻のヤングマン」
 西城秀樹さん(享年63)が、『恋する季節』で歌手デビューを飾ったのは、1972年の3月25日のことだった。それからちょうど50年を迎える今年3月25日に、西城さんの節目を記念したDVD-BOX『THE 50 HIDEKI SAIJO song of memories』が発売される。 特典に秘蔵写真集がつくなど、発売前から話題を呼んでいる同作品。デビュー以降、西城さんが『8時だョ!全員集合』や『ザ・ベストテン』といったTBS系のテレビ番組で披露した歌声が、7時間30分にわたって収録されている超大作だ。生前、西城さんのマネジャーを30年以上にわたって務めた片方秀幸さんが明かす。「秀樹さんがこの世を去られてから4年経ちますが、追悼という意味ではなく、いつまでも力強い歌声で人を引きつける彼の魅力を感じてもらうための7時間半です。特にデビュー間もない1970年代の映像は、これまで再放送すらされていないものもあり、テレビ局に無理を言って発掘してもらった貴重な映像ばかりです」 DVDは7枚組で、“大トリ”の7枚目に収録されるのは、『輝く!日本レコード大賞』での雄姿だ。「レコード大賞は生放送でしたから、地上波での放送は基本的には一度きり。在りし日のレコード大賞で歌う秀樹さんを見られる機会は、ほとんどないといえます。ビデオがそれほど普及していない時代に放送されたものですから、レコード大賞の作品化自体が画期的なことです」(片方さん・以下同) 収録された中には、1991年に日本レコード大賞金賞を受賞した『傷だらけのローラ』や『ヤングマン』など5曲を熱唱したメドレーがある。それは世に出てこなかった、“幻の出演回”だ。制作がスタートしたのは3年前。さまざまな権利関係をクリアして発売にこぎつけた。「生前、秀樹さんは毎年ライブを開催し、着用したステージ衣装やグッズをファンにプレゼントしてきました。ファンに対して、精一杯の愛情を注ぐのが秀樹さんの姿勢で、このDVDでもそんな彼の思いが示せたのではないでしょうか」 西城さんがこの世を去ってから約4年。それでも、輝きと情熱は色あせない。※女性セブン2022年3月31日号
2022.03.18 16:00
女性セブン
(写真/AFLO)
天皇陛下や文豪、大スターも同じ桜を見ていたかも…全国“特別な桜”ガイド
 まもなくお花見シーズンが到来。今年は、著名人や偉人が愛した“特別な桜”を心静かに鑑賞してみませんか? それぞれの思いや希望が託された桜の花々は、時を経たいまも変わらぬ美しさで私たちに春の訪れを知らせてくれます。【天皇陛下・皇族方が愛した桜】●天皇皇后両陛下が愛した国営昭和記念公園の桜(見頃は3月下旬〜) 天皇皇后両陛下が1999年に植樹された「サトザクラ」をはじめ、約180万平方メートルの広大な園内に31種、1500本の桜が咲き誇る。2016年に愛子さまとご一緒に見に来られた際、雅子さまは「懐かしいですね」と笑顔で話された。住所:東京都立川市緑町3173 開園時間:9:30〜17:00入園料:大人(15才以上) 450円、シルバー(65才以上) 210円、中学生以下 無料●上皇上皇后両陛下が愛した川越・喜多院の桜(見頃は3月下旬〜4月上旬) 2007年、上皇上皇后両陛下は来日中のスウェーデン国王夫妻を招いて満開のしだれ桜を鑑賞された。僧侶の説明に耳を傾けながら、目を輝かせて眺めていたのが印象的。住所:埼玉県川越市小仙波町1-20-1拝観時間:9:00〜16:30(日祝は16:50まで)拝観料:大人400円、小人(小・中学生)200円●上皇上皇后両陛下が愛した皇居周辺の桜(見頃は3月下旬〜4月上旬) 上皇上皇后両陛下の心のよりどころでもあった桜。お忍びで一般人に交ざり、皇居の外から桜景色を鑑賞されたことも。皇居からお引っ越しの際も、たくさんの桜がおふたりを見送った。住所:東京都千代田区千代田1-1(※今年の乾通りの一般公開は中止。写真は千鳥ヶ淵)【歴史上の人物が愛した桜】●水戸黄門が愛した茨城・外大野の桜(見頃は4月上旬〜) 水戸黄門(徳川光圀公)の手植えで、「ここでのみ根づく」という意味の歌を残したと伝えられる桜。樹齢300年強ながら花量が多く、生命力と力強さを感じさせる。住所:茨城県久慈郡大子町外大野1312●豊臣秀吉が愛した京都・醍醐寺の桜(今年は4月7日前後が見頃) いまから約400年前、醍醐寺のしだれ桜の美しさに魅了された太閤・豊臣秀吉は、1300人もの人を招き贅をつくした宴を開いたといわれている。現在も約700本の桜が点在。宴にちなんだ「豊太閤花見行列」は4月10日に開催予定。住所:京都府京都市伏見区醍醐東大路町22開園時間:三宝院・伽藍・霊宝館9:00〜17:00、上醍醐9:00〜15:00拝観料:(三宝院庭園・伽藍・霊宝館庭園)大人1500円、中・高校生1000円【文豪が愛した桜】●太宰治が愛した青森・芦野公園の桜(見頃は4月下旬〜5月上旬) 太宰治が少年時代に遊んだ芦野公園は、2000本もの桜が芦野湖畔に広がる景勝地。園内には「津軽鉄道」の駅があり、桜のトンネルをレトロな列車が走り抜ける光景が人気。付近には太宰の銅像や記念館などもある。住所:青森県五所川原市金木町芦野84-170●宮沢賢治が愛した岩手・北上展勝地の桜(見頃は4月下旬〜5月上旬) 宮沢賢治生誕の地からほど近く、「みちのく三大桜名所」に数えられる公園。2kmにわたって続く樹齢100年強のソメイヨシノの桜並木は、どこか賢治の世界を感じさせるほのぼのとした風景。住所:岩手県北上市立花10地割●谷崎潤一郎が愛した京都・哲学の道の桜(見頃は3月下旬〜4月上旬) 京都にある法然院の裏の家に下宿していた谷崎潤一郎は、その地の桜に魅せられ夫婦の墓所にも選んだという。疏水分線に沿った約2kmの小道は「哲学の道」と呼ばれ、春には桜のトンネルとなる。谷崎ゆかりのカフェも。住所:京都府京都市左京区若王子橋から浄土寺橋●与謝野晶子が愛した京都・円山公園の桜(見頃は3月下旬〜4月上旬) 与謝野晶子の作品集『みだれ髪』のなかで歌われているのが、この“祇園しだれ”と呼ばれる桜。夜はライトアップも行われ、昼間よりいっそう艶やかで印象的な姿を楽しめる。住所:京都府京都市東山区円山町【大スターが愛した桜】●西城秀樹さんが愛した加治川治水記念公園・加治川堤の桜(見頃は4月上旬〜) 約2000本からなる桜の並木道の造成にあたり、西城秀樹さん(享年63)ら芸能人や文化人が資金提供を行った。本人の名札のついた桜の木もあり、訪れる人を楽しませている。住所:新潟県新発田市真野原外463-1●渥美清さんが愛した東京柴又・江戸川土手の桜(見頃は3月下旬〜) 渥美清さん(享年68)主演の国民的映画『男はつらいよ』の第1作は、主人公・寅次郎の故郷である柴又の桜の紹介から始まる。柴又公園付近といわれ、「寅さんの愛した桜」としても親しまれる。住所:東京都葛飾区柴又6-24-4●田村正和さんが愛した京都・二尊院の桜(見頃は3月下旬〜4月中旬) 田村正和さん(享年77)が小学校4年生まで過ごした京都・嵯峨野にある二尊院には、父親の阪東妻三郎さん(享年51)と兄の田村高広さん(享年77)が眠っている。京都に来た際は墓参りを欠かさず、桜の季節もよく訪れていたそう。住所:京都府京都市右京区嵯峨二尊院門前長神町27拝観時間:9:00〜16:30(受付終了)拝観料金:大人(中学生以上)500円 小人(小学生以下)無料※女性セブン2022年3月24日号
2022.03.16 11:00
女性セブン
「御三家」について振り返る
高田文夫氏が回顧 アイドルだけど時代劇ものが絶品だった元祖「御三家」
 放送作家、タレント、演芸評論家で立川流の「立川藤志楼」として高座にもあがる高田文夫氏が『週刊ポスト』で連載するエッセイ「笑刊ポスト」。今回は西郷輝彦さんの訃報をうけて、「御三家」について回顧する。 * * * 西郷輝彦(享年75)が力尽きた。橋幸夫、舟木一夫と共に「御三家」と呼ばれ大変な人気を博した。『君だけを』でデビューしていきなり大ヒット、『十七才のこの胸に』を歌っていた時、私は15歳。代表曲は『星のフラメンコ』。 私は御三家のヒットの中でも意外に時代劇のものが好みで、橋は勿論『潮来笠』縞の合羽に三度笠である。舟木は絶品『銭形平次』。“男だったら ひとつに賭ける かけてもつれた謎をとく”である。 そして西郷は『江戸を斬る』の遠山金四郎。最近の若い人は、あまり時代劇はやらないネ。ジャニーズの“清水次郎長一家”とかないものな。 私のような古い人間なら覚えているだろう、この「御三家」に三田明(美しい十代)を加えると「四天王」と呼ぶ場合もあった事を。“青春歌謡”が大全盛の時代です。梶光夫、安達明、叶修二なんて方もいました。我々団塊の世代の姉たちが夢中になった「平凡」「明星」時代です。少し前まで歌謡界は御大たちの四天王が牛耳っておりました。三橋美智也、春日八郎、三波春夫、村田英雄。この名前がいまという時代に並ぶと凄いですネ。「御三家」の次の時代「新御三家」と呼ばれたのが郷ひろみ、西城秀樹、野口五郎。西郷輝彦のようにここでもひとり、西城秀樹が亡くなっています。西郷に西城、不思議なめぐりあわせです。 日本人は古くから「三」という数字が好きなようで、芸能界でもやたら「三」でくくります。「花の中三トリオ」と呼ばれたのが山口百恵、森昌子、桜田淳子。もう誰ひとり芸能界にはいません。その前の三人娘が小柳ルミ子、天地真理、南沙織。小柳は今サッカー界でガンバッております。その昔スパーク3人娘と呼ばれていたのが中尾ミエ、伊東ゆかり、園まり。スマイリー小原が指揮する『スパーク・ショー』などで踊っておりました。そして何より「元祖・三人娘」が美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみです。どうです? お父さんたち、懐しさに涙がチョチョギレそうでしょ。 こんな三人も覚えていますか。武道館でコンサートもやった(私もだまされて見に行った)「中年御三家」。永六輔、野坂昭如、小沢昭一です。野坂の『マリリン・モンロー・ノー・リターン』と『黒の舟唄』しかヒット曲がないのです。 おまけは野球界から「50番トリオ」巨人の槙原、吉村、駒田。「スーパーカートリオ」は大洋の高木、加藤、屋鋪です。「バックスクリーン3連発」は言わずと知れたバース、掛布、岡田です。イラスト/佐野文二郎※週刊ポスト2022年3月18・25日号
2022.03.08 16:00
週刊ポスト
ギタリスト・芳野藤丸が語る 西城秀樹さんと『夜ヒット』秘話
ギタリスト・芳野藤丸が語る 西城秀樹さんと『夜ヒット』秘話
『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)は、1968年11月から1990年10月まで22年にわたり放送された生放送の歌番組だ。毎回豪華な歌手が登場し、趣向を凝らしたパフォーマンスを披露し、最高視聴率42.2%を記録した超人気番組だ。 そんな『夜ヒット』で、多くの視聴者を魅了したのが西城秀樹さん(享年63)だろう。西城さんの3回忌を迎えた2020年5月には、『夜ヒット』の出演シーンなどをまとめたDVD『西城秀樹 IN 夜のヒットスタジオ』(ソニー・ミュージックダイレクト)が発売されている。これには、1975年5月から1987年12月の計172回の中から120の出演シーンが収録されている。 西城さんのバックを「藤丸バンド」として務め、『夜ヒット』にも一緒に出演していた、SHOGUNのギタリスト芳野藤丸と西城さんの出会いは、1974年。ロッド・スチュワートの来日公演の前座として、ジョー山中さん(享年64)のバンドでギターを弾く芳野を西城さんが見ていたところから始まる。「その数日後、乃木坂の道でばったり出会い、『あそこで弾いてましたよね。ぼくのバックをやってくれませんか?』と、ヒデキから直接声を掛けられたのがきっかけ。当時、沢田研二さんには井上堯之バンドがありましたが、ロック志向が強かった彼も自分のバンドを持ち、自分たちの音を作りたいと思っていたそうです」(芳野・以下同) 最初は歌番組のフルバンドに芳野が加わる形でスタートし、すぐに若手ミュージシャンを集めて「藤丸バンド」を結成。『恋の暴走』(1975年5月発売)からサポートを開始し、土日はコンサート、平日はテレビの歌番組やレコーディングに参加し、多忙を極めたという。「ハードロックを目指していたのに、芸能界のど真ん中にいきなり入って面食らったけど、興味深かった。ヒデキが振付師から伝授された振りが、ぼくらにも伝えられましたが、『夜のヒットスタジオ』に出演し、ステップを踏みながら振り付きでギターを弾くなんて、想像もしていませんでした」 西城さんも芳野も180cmを超える長身、ともにスリムで長髪。遠目から見て似ていたことから、コンサート会場やテレビ局に出入りする際は、芳野が影武者を務めていたという。「タクシーに乗って、コートを頭からかぶって出て行くと、ファンの子たちが追いかけてくる。カーチェイスをしながら遠回りしてホテルに向かい、タクシーから降りて『お疲れさま』と声をかけると、ぼくだと知ってみんながっかり。そのうち通用しなくなったけど、振り返るとあれも楽しかった」 ヒデキのサポートから離れることになった後、芳野はSHOGUNのメンバーとして『夜ヒット』に出演。同番組でアーティスト同士としての共演はかなわなかったものの、1999年から芳野は西城さんのツアーサポートに加わり、2人の交流は晩年も続いた。1983年から35年にわたって西城さんのマネジャーを務めた片方秀幸さんはこう言う。「『夜ヒット』の放送は夜遅いので、出演者は終了後すぐに帰りますが、秀樹さんは必ず自分の出演シーンをVTRで確認していました。 何を言うでもなく、ただひたすら見るだけ。数回繰り返し見直して、納得してから局を離れます。常に客観的に自分を見て、よりよく魅せるにはどうしたらよいかを自問自答していたのでしょう」 番組の立ち上げから参加し、1977〜1987年にプロデューサー兼総合演出を担当した疋田拓さんも、こう振り返る。「ヒデキはとにかく真面目。常に全力でぶつかってくる。だから、スタッフも期待の上をいく演出をしようと本気で取り組んできました」 熱い出演者と熱いスタッフで作り上げた番組ゆえ、『夜ヒット』はいまなお伝説として語りつがれているのだろう。【プロフィール】ミュージシャン・芳野藤丸/1974〜1978年、1999〜2002年に西城さんのライブをサポート。SHOGUNのギタリスト。著書に『芳野藤丸自伝』(DU BOOKS)がある。8月には50周年記念コンサート、アルバム発売を行う。プロデューサー・片方秀幸さん/西城さんの個人事務所「アースコーポレーション」発足当時からマネジャーを務める。3月25日に西城秀樹 デビュー50周年記念7枚組DVD BOX『THE 50 HIDEKI SAIJO song of memories』を発売。テレビプロデューサー・疋田拓さん/『夜ヒット』の立ち上げから番組に参加し、1977〜1987年にプロデューサーを務めた“ミスター夜ヒット”。令和3年度文化庁長官表彰。現在は番組制作会社『プロデュース&ディレクション』代表。取材・文/山下和恵 イラスト/諏岸 撮影/浅野剛※女性セブン2022年2月17・24日号
2022.02.16 07:00
女性セブン
最先端の演出で楽しませた『夜ヒット』 西城秀樹さんは特殊メイクで老人姿に
最先端の演出で楽しませた『夜ヒット』 西城秀樹さんは特殊メイクで老人姿に
『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)は、1968年11月から1990年10月まで22年にわたり放送された生放送の歌番組だ。毎回豪華な歌手が登場し、趣向を凝らしたパフォーマンスを披露する。 西城秀樹さん(享年63)の3回忌を迎えた2020年5月には、『夜ヒット』の出演シーンなどをまとめたDVD『西城秀樹 IN 夜のヒットスタジオ』(ソニー・ミュージックダイレクト)が発売されている。これには、1975年5月から1987年12月の計172回の中から120の出演シーンが収録されている。関係者が西城さんと番組の魅力を回顧する──。『夜ヒット』では、大量のドライアイスが使われることも多かった。1983年から35年にわたって西城さんのマネジャーを務めた片方秀幸さんはこう言う。「歌い終わると、床はもう水浸し。CMの間にスタッフ総出で床を拭きまくって、何事もなかったように次のセットが組まれていくのが魔法のようでした」 大量のすすき、巨大なフェニックス、電飾によるトンネルのセットなどなど、曲に合わせてさまざまなセットが用意された。『炎』では、ろうそくに囲まれることもあれば(1978年5月8日)、氷のセットを抱いて歌うこともあった(同年6月5日)。ちなみに、氷の彫刻を作ったのは「赤坂プリンスホテル」のシェフ。曲の合間に外部協力者をきちんと紹介するのも『夜ヒット』の“お約束”だった。 1980年代後半になると、新しい技術がどんどん開発され、最先端の演出が見られるようになった。1985年3月から茨城県つくば市(当時は筑波郡)で開催された「国際科学技術博覧会(通称・つくば科学万博)」の開会式のテーマソング『一万光年の愛』(1985年2月4日)では、指先から青いレーザー光線が放たれ、未来感あふれる演出がなされた。 1985年になると、月曜日の22時から、水曜日の21時に引っ越し、2時間番組の『夜のヒットスタジオDELUXE』としてリニューアル。7月10日放送回の『リアル・タイム』では、特殊メイクで80代の老人に扮して歌唱。白髪で真っ赤なジャケットを着て歌う姿は、「もしもこの先50年ほども生きていれば……」と思わせる、西城さんの幻の姿だと、ファンの間で語り継がれている。エンディングでは多羅尾伴内のように(たとえが古い!?)、特殊メイクをバリバリとはがし、いつものカッコいい西城さんに戻って番組終了。持ち歌を歌うだけでなく、さまざまな企画ものが生まれ、歌手としての実力を発揮する場として、『夜ヒット』は貴重な場所であり続けた。「とにかくヒデキには、青い空と海がよく似合う。ヒデキ自身が海外にダイビングに行って撮影してきた画像を演出に使ったことがある」と語るのは、1986年から『夜のヒットスタジオDELUXE』 のメイン構成作家となった木崎徹さんだ。「毎回10組近くのゲストに取材してトークネタを考え、美術セットのアイディアも書かなくてはいけない。当時の司会は、私と中学から大学までクラブもクラスも一緒で、気心が知れた古舘伊知郎。寝る間もないほど忙しかったけど、とても楽しかった。 ヒデキとはその数年前に知り合い、一緒に遊んでいた仲間。ダイビングを始めたいという彼の運転で、お互いに過密なスケジュールをなんとか調整して時間を作って潜りに行き、ライセンス取得のサポートをしていました。そんな彼のイメージにぴったりの映像を持ち込んでくれるというなら、使わない選択肢はない。鮮やかなブルーの海の中で歌うヒデキは、いつにもまして爽やかで、セクシーでした」(木崎徹さん)【プロフィール】プロデューサー・片方秀幸さん/西城さんの個人事務所「アースコーポレーション」発足当時からマネジャーを務める。3月25日に西城秀樹 デビュー50周年記念7枚組DVD BOX『THE 50 HIDEKI SAIJO song of memories』を発売。放送作家・木崎徹さん/1986年から『夜ヒット』の構成作家となり、1990年の番組終了まで担当。その後、各局の音楽番組を担当し、現在はFM大阪でZACKY&YU『あわじ感動!音楽島』の構成、プロデュース、DJを担当している。取材・文/山下和恵 イラスト/諏岸 撮影/浅野剛 写真/女性セブン写真部※女性セブン2022年2月17・24日号
2022.02.15 07:00
女性セブン
『夜ヒット』で輝いた西城秀樹さん 1回のリハだけで完璧なパフォーマンス
『夜ヒット』で輝いた西城秀樹さん 1回のリハだけで完璧なパフォーマンス
 日本のテレビの歴史に残る伝説的な音楽番組『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)。この『夜ヒット』は、1968年11月から1990年10月まで、22年にわたって放送され、最高視聴率42.2%を記録した人気番組だ。毎回生放送で多彩なアーティストが楽曲を披露した。 西城秀樹さん(享年63)の3回忌を迎えた2020年5月には、『夜ヒット』の出演シーンなどをまとめたDVD『西城秀樹 IN 夜のヒットスタジオ』(ソニー・ミュージックダイレクト)が発売されている。これには、1975年5月から1987年12月の計172回の中から120の出演シーンが収録されている。関係者らが当時の西城さんの様子を振り返る。 西城さんは「ワイルドな17才」をキャッチフレーズに1972年にデビューしてトップアイドルの仲間入り。郷ひろみ、野口五郎とともに「新御三家」と称された。デビュー当時はジャンプスーツをベースにしたステージ衣装を身に着けていたが、その衣装を担当した塚田伸夫さんは、ソウルミュージックのイメージで作ったという。「グループ・サウンズのブームが終わり、当時のトップアイドルは伊丹幸雄。彼はセーラーファッションだったから、ヒデキはもっとワイルドにした方がいいと思ったんです。 デビュー前にぼくの車に乗せて移動していたとき、西麻布の交差点で車が止まると『ぼくのことを大事にしてくださいね』って言うんです。びっくりして顔をまじまじと見ると、『絶対、スーパースターになりますから』って真剣な顔で。ぼくはほかの歌手の衣装も手掛けていましたから、ものすごく負けず嫌いな彼は『自分を一番に考えてほしい』と訴えてきたんです」(塚田さん・以下同) 西城さんは、ステージに立つたびにほかの歌手たちと観客の拍手の大きさを比べ、どう演出すればより拍手がもらえるようになるのかスタッフに相談するなど、勉強熱心だったという。そして、あっという間にスターとなっていった。「若い彼の魅力は、“汗”。流れる汗を照明で光らせようと、胸元を大きく開けた衣装を作ったこともありました。コンサートのステージに立つヒデキの胸元が狙い通りにきらめき、男らしさと繊細さが表現できる衣装にしました」 照明にきらめくと言えば、ほとばしる汗だけではない。スーツやタキシード姿でバラードを歌い上げるときには、摩天楼を思い起こさせるセットのきらめきも魅力的だった。小説家の小路幸也さんが振り返る。「西城秀樹にはロック志向のバラード曲やドラマチックな方向性の曲も多く、ハスキーで奥深い歌声によく合う。あの声に歌唱力、表現力が備わった上に、あの顔立ち……。女性にはたまらないでしょうね」 情熱系パフォーマンスと違い、アクションの大きな振り付けはないが、カメラの動きに合わせてピタリとポーズを決め、目線を合わせる。1983年から35年にわたって西城さんのマネジャーを務めた片方秀幸さんはこう言う。「一度限りのカメラリハーサルで、激しく動くカメラの動きとスイッチング(どのカメラで撮っているか)を覚え、本番では振り向いた先にカメラがいて、目線がバチッと合う。そこには何の躊躇も、ブレもありません。テレビを見ている人は、自分と目が合ったと感じていたと思いますよ」【プロフィール】プロデューサー・塚田伸夫さん/ジョワブレーン代表。デビュー当初の西城さんの衣装デザインを手掛ける。西城さんが、当時のヘアスタイルを見て“ジョワジョワだからジョワさんだ”と愛称をつけた。これが現在の会社名になっている。小説家・小路幸也さん/学生時代に仲間とバンドを組んでミュージシャンを目指すが、広告制作会社勤務を経て小説家に。著書に『東京バンドワゴン』シリーズ(集英社)などがある。最新刊は『花咲小路二丁目の寫眞館』(ポプラ社)。プロデューサー・片方秀幸さん/西城さんの個人事務所「アースコーポレーション」発足当時からマネジャーを務める。3月25日に西城秀樹 デビュー50周年記念7枚組DVD BOX『THE 50 HIDEKI SAIJO song of memories』を発売。取材・文/山下和恵 イラスト/諏岸 撮影/浅野剛 写真/女性セブン写真部※女性セブン2022年2月17・24日号
2022.02.14 07:00
女性セブン
西城秀樹さんと『夜ヒット』 大人数を率いて熱く激しく歌う伝説的シーン
西城秀樹さんと『夜ヒット』 大人数を率いて熱く激しく歌う伝説的シーン
 1968年11月から1990年10月まで、22年にわたって放送された音楽番組が『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)だ。最高視聴率42.2%を記録したこの『夜ヒット』では、毎回生放送で多彩なアーティストが楽曲を披露した。 西城秀樹さん(享年63)の3回忌を迎えた2020年5月には、『夜ヒット』の出演シーンなどをまとめたDVD『西城秀樹 IN 夜のヒットスタジオ』(ソニー・ミュージックダイレクト)が発売されている。これには、1975年5月から1987年12月の計172回の中から120の出演シーンが収録されている。1983年から35年にわたって西城さんのマネジャーを務めた片方秀幸さんは、膨大な資料映像の中から出演シーンをすべてチェックし、権利関係がクリアできたものの大部分をDVDに収録したと語る。「歌唱シーンだけでなく、オープニングメドレーや、歌唱前後のトークもできるだけ多く収めました。そこに自然体の秀樹さんを垣間見ることができます」(片方さん) 例えば、1980年8月4日には、ひげをたくわえて登場。芳村真理が「なぜ秀樹がひげを生やしているの?」と尋ねると、「2年連続で後楽園球場(のコンサート)が雨だったので、大阪球場は晴れてほしいから。むさくるしいけどご勘弁を!」と謝罪してから、『エンドレス・サマー』を歌唱した。その3週間後の8月25日にはひげをそって出演。無事に晴れてコンサートができたことを報告している。いまのようにSNSなどのツールがなかったため、ファンに情報を伝える場でもあったのだ。『夜ヒット』での西城さんの出演シーンの代表といえば、1979年の大ヒット曲『YOUNG MAN(Y.M.C.A.)』で、スクールメイツやチアガールらと一緒に楽しそうに歌って踊るシーンだ。1979年4月9日放送回では、クレーンに乗って、空を飛ぶ如く、上下左右、縦横無尽に動き回り、熱く激しいパフォーマンスを披露。つられたほかの出演者たちも一緒になって、Y.M.C.A.の振りを踊っている。「西城秀樹は、少女漫画から飛び出てきたかのように足が長く、抜群のスタイルなのに、どこか気さくさを感じさせる。デビュー当時は、情熱をこめてストレートに歌い上げるシンプルな演出や、大人数で歌い踊る演出が似合った」と分析するのは、コラムニストの泉麻人さんだ。『薔薇の鎖』のスタンドマイクを使ったアクションパフォーマンスや、『激しい恋』『傷だらけのローラ』といった絶叫型歌唱で魅せるには、特別なセットは必要なかったのだろう。【プロフィール】プロデューサー・片方秀幸さん/西城さんの個人事務所「アースコーポレーション」発足当時からマネジャーを務める。3月25日に西城秀樹 デビュー50周年記念7枚組DVD BOX『THE 50 HIDEKI SAIJO song of memories』を発売。コラムニスト・泉麻人さん/『週刊TVガイド』の編集者を経てフリーに。東京や昭和、サブカルチャー、街歩き、バス旅などをテーマにしたエッセイを発表。新刊は銀座の老舗と街並みの魅力について書いたエッセイ『銀ぶら百年』(文藝春秋)。取材・文/山下和恵 イラスト/諏岸 撮影/浅野剛 写真/女性セブン写真部※女性セブン2022年2月17・24日号
2022.02.13 07:00
女性セブン
西城秀樹さんの「最後の晩餐」家族団欒の中で食べた大好きな妻のスペアリブ
西城秀樹さんの「最後の晩餐」家族団欒の中で食べた大好きな妻のスペアリブ
 1972年に“ワイルドな17歳”のキャッチフレーズでデビューした西城秀樹さん(享年63)。野口五郎、郷ひろみとともに“新御三家”と呼ばれた昭和のトップアイドルだ。2001年に脳梗塞を発症して以来、病と闘いながらリハビリを続け、歌手活動を行うものの、2018年に急性心不全のため逝去した。そんな秀樹さんの最後の食卓には、どんな料理が並んでいたのか。(※文中は敬称略)妻の手料理を頬張り“おいしいよ“と一言 サラダや汁物を先に出し、食べ終えた頃を見計らって肉料理を出すのが、西城家の食卓の決まりだった。「秀樹さんは野菜が苦手で、いつもお皿を避けてしまうので、野菜を食べないとお肉は出てこないよ~、とわざと言うんです。するとしぶしぶ食べてくれました」と、妻の木本美紀さん。 家族と最後に食卓を囲んだのは、リハビリから戻った夜。いつも通り18時過ぎだった。「メインディッシュは、秀樹さんと子供たちが大好きなスペアリブ。その頃は話すのもスムーズではなかったのですが、『おいしいよ』と言ってくれました」(美紀さん) だが、食事を終えた19時頃、家族団欒のときを過ごしていると、突如、秀樹は体をこわばらせて、動かなくなった。すぐに救急車で病院に運ばれたが、意識は戻らず、22日後に静かに息を引き取った。 糖尿病を患いながら何度も脳梗塞を繰り返し、テレビや舞台で見せる元気な姿の裏で、17年もの間、病と闘っていた秀樹。懸命にリハビリを続け、最後までステージに立つことを諦めない気力を支えたのは、愛妻の手料理と家族との愛があふれる食卓だった。自宅のバーベキューでもスペアリブが一番の好物 うれしそうにスペアリブを食べる秀樹。家族や仲間と自宅でバーベキューを行った際の一枚。美紀さんが作るスペアリブはお気に入りの一品だった。 最後の晩餐は、食べきれる量を少しずつお皿に盛った。サラダ、ポトフ、スペアリブ、大好きな白いご飯を順に食して完食。美紀さんは痩せていく秀樹のために、彩りよく食欲をそそる盛り付けを工夫し、おいしく楽しく食べてほしいと気を配った。撮影/鈴木江実子 調理・スタイリング/ダンノマリコ 取材・文/スペースリーブ(湯山幸奈、加藤瞳)※女性セブン2022年1月20・27日号
2022.01.08 16:00
女性セブン
元NHK宮本隆治アナが明かす紅白舞台裏「勘九郎さんから届いた礼状」
元NHK宮本隆治アナが明かす紅白舞台裏「勘九郎さんから届いた礼状」
 毎年大晦日恒例のNHK紅白歌合戦。NHKのアナウンサーにとっては、とても重要な舞台の一つである。元NHKアナウンサーの宮本隆治さんが、紅白の舞台裏を明かす。 * * * NHKのアナウンサーには紅白の司会を目標にしている人が多く、私もそのひとりでした。もともと芸能志望でしたが、1973年に入局してから22年間、芸能とは無縁だった私が、1995(平成7)年に、初めて『歌謡コンサート』の司会に抜擢され、福岡から上京してすぐの担当でしたが、「なんとかなる」と思ってたんです。この番組は生放送で、NHKホール(3601席)のお客さんの前にひとりたたずみ、カメラを通じて全国の皆さんが見ていることに、本番になって初めて気がつき、のどは渇くわ、足は震えるわ……。その番組がいまの『うたコン』ですが、なぜ生で『うたコン』をやるかというと、12月31日の紅白も生放送ゆえ、魔物に襲われないように、すべてのスタッフが“刀を研いでいる”わけです。 紅白は12月25日に台本ができ、3日間で覚え、29日の朝8時から30、31日とリハーサル。31日は午後3時に全員が集まって顔合わせをし、歌手のスケジュールに合わせてパートごとのリハを行います。たとえば小林幸子さんの衣装セットを出し入れする時間が重要なのに、やってみないとわからない不安が常につきまとう。私の紅白の思い出の中で特に印象深い出来事は3つあります。 1つめは、1999年の第50回。白組司会の故・中村勘九郎さんから「西城秀樹さんの曲『バイラモス』を『バイアグラ』と言ったらどうしよう」と相談され、無事乗り切った思い出。 2つめは、2003年の第54回で小林幸子さんの巨大衣装が電気トラブルで正常に作動しなかったこと。その直後、舞台袖で目撃したのは、コンセントが抜けた装置を囲んでスタッフが腕組みする光景でした。3つめが、初司会を行った1995年の第46回。舞い上がっていた私に平常心を取り戻させてくれた鳥羽一郎さんの思い出です(詳細は下記のベスト3を参照)。紅白を見るたびに思い出し、いい思い出になっています。これからもいろんな歴史を刻んでほしいです。宮本さん「心の紅白」ベスト3【1999年】 西城秀樹さんの曲紹介で「バイアグラ」と口走ることを恐れていた勘九郎さんに「バイで一回切ってラモスかアグラか考える。半透明テープにマジックで書いて貼る」という2案を伝授した。無事に成功後にハグをし、正月には礼状が届いたという。【2003年】 3つの羽根のうち2つが動かない異変に裏で確認したところ、なんと舞台袖のコンセントが抜けていたのが原因と判明。だが、巨大な衣装の故障に動じず、堂々と歌い切った小林幸子の胆力に感服したという。【1995年】 この紅白で『兄弟船』を歌った鳥羽一郎は、豪華絢爛な衣装が多い中、Tシャツ、ジーパン、ゴム長靴、ねじり鉢巻きの合計7500円の衣装で登場。その質素さこそ、宮本アナに冷静さを取り戻させた神衣装だった。【プロフィール】宮本隆治/1950年、福岡県生まれ。1973年NHK入局。2007年よりフリーアナウンサーに。『宮本隆治の歌謡ポップス一番星』(CS歌謡ポップスチャンネル)などにレギュラー出演。取材・文/北武司 撮影/女性セブン写真部※女性セブン2022年1月6・13日号
2021.12.30 16:00
女性セブン
『お笑いスター誕生!!』から一躍有名になったコロッケ
コロッケが語る『お笑いスタ誕』 最初は誰も目を合わせてくれなかった
 漫才ブームが沸騰する前の1980年4月、それまでになかった斬新な笑いのオーディション番組『お笑いスター誕生!!』(日本テレビ系)が始まった。この番組から羽ばたいた一人、コロッケに、同番組で6週勝ち抜いて銀賞をとった当時の思い出を聞いた。 * * *「誰だ、あいつ入れたの」 オーディションで初めて僕を見た時、演出の赤尾(健一)さんはそう呟いたらしいです。なにしろ格好が異質でしたからね。茶色のブーツに金色のパンツ、ゴールドのデザインが入った白いシャツ。しかも、カーリーヘアーで化粧もしていたので、誰も目を合わせてくれなかった(笑)。 でも、持参したカセットデッキにスイッチを入れて、ちあきなおみさんや桜田淳子さん、西城秀樹さんの形態模写を始めると、周りがザワつきました。赤尾さんは「ワンコーラスだと長い。『もう少し見たい』と思わせるほうがいい」とアドバイスしてくれて、出場が決まりました。 ネタを終えると、審査員のタモリさんが「前より面白くなったね」と褒めてくれて、嬉しかった。その3年前、赤塚不二夫さん、タモリさん、所ジョージさんにモノマネを披露できる機会があり、3人を代表して所さんが「似てるけど、なんか面白くないんだよね」と指摘してくださったんです。結局、ネタ不足で6週しか勝ち抜けなかった。女子大生の親衛隊もできましたが、熊本のスナックでウケていたド素人が運良くテレビに出られただけ。ネタを貯めないと通用しないと危機感を強く持ちました。 そんな時、番組で仲良くなった芸人たちとの遊びが役立ちました。お店で、木梨憲武が『みちのくひとり旅』を歌っている時に、いかに笑いを取りながら邪魔できるかを競い合いました。ボケやツッコミを教えてくれたのはブラザー・コーンさんです。 同じ頃、新宿のバーで飲んでいたら、西城秀樹さんと遭遇しました。まだ無名の僕を「腹減ったからメシ食わない?」と誘ってくれ、深夜に2人で「餃子の王将」を訪れました。その時、「コロッケもこれからどうなるかわからないけど、売れた時に調子に乗ったらダメだよ」と教えてくれた。今でも忘れられない一言です。【プロフィール】コロッケ/1960年生まれ、熊本県出身。コロナ禍で延期になった“ものまねエンターテイメント コロッケコンサート”『勝手にやってすみません!~40th Anniversary~』全国で開催中。取材・文/岡野誠※週刊ポスト2021年12月10日号
2021.12.17 07:00
週刊ポスト
新浜レオン
演歌第7世代ブーム!新浜レオンは新御三家カバーで注目 父は『伯方の塩』歌う
 今、演歌界で新たなブームが起こっている。歌唱力抜群のイケメン歌手が続々と登場しているのだ。ブームの最先端をコラムニストで放送作家の山田美保子さんが解説する。 * * * この1~2年、歌謡界で話題を呼んでいる「演歌第7世代」を御存知だろうか。あの「純烈」のブレイクで始まった「演歌男子」も引き続きブームと言えるが、「演歌第7世代」にはイケメンの実力派ソロ歌手が集まっている。真田ナオキ、辰巳ゆうと、青山新(あおやま・しん)、望月琉叶(もちづき・るか)、彩青(りゅうせい)、二見颯一(ふたみ・そういち)、新浜レオン(にいはま・れおん)〈順不同〉ら、演歌歌謡系の若手歌手のことを、レコード会社や所属事務所が、その垣根を越えて業界全体で盛り上げようとしているところだ。  たとえば11月27日には『日経ホール』にて行われる、「我ら演歌第7世代!スペシャルコンサート」には、辰巳、二見、新浜、彩青、青山がステージに並ぶ。 全員、甘いマスクと歌声が魅力的で、21年前、彗星のごとく現れた「演歌界のプリンス」氷川きよしを彷彿とさせる。氷川同様、彼らを支えているのは圧倒的に年齢を重ねた女性ファンたちである。 氷川が長年、『演歌名曲コレクション』なるシリーズアルバムで。文字通り演歌の名曲をカバーし、コンサートでも大先輩たちに敬意を払いつつ大切に歌ってきたように、「演歌第7世代」も、往年の演歌や歌謡曲の名曲をカバーして話題を呼んでいるところだ。幼少期から新御三家の曲に触れてきた なかでも新浜レオンは、新御三家、郷ひろみ、野口五郎、そして西城秀樹さんの大ヒット曲を次々カバーし、彼らのファンから御礼の言葉が届くほど。その歌唱力や盛り上げ方が、新御三家ファンの想いを裏切らないからだろう。 それにしても、いくら昭和歌謡がブームだとはいえ、まだ25歳の新浜レオンが、なぜここまで新御三家に精通しているのか。その理由は父親が2代目『伯方の塩』のCMソングでも知られる演歌歌手の高城靖雄だからだ。 高城がコンサートやディナーショーで新御三家の曲をカバーしているのを幼少期から見ていた新浜が選んだのは、郷ひろみの曲では、『お嫁サンバ』『2億4千万の瞳』『よろしく哀愁』『セクシー・ユー』。西城秀樹さんの曲では、『情熱の嵐』『ギャランドゥ』『ブルースカイブルー』『傷だらけのローラ』。リアルタイムで聴いていらした方なら歓声をあげてしまうような名曲ばかりである。 そして野口五郎とは、『うたこん』(NHK)で『私鉄沿線』をデュエットし、新浜曰く「こちらはもう、夢のようなひとときだったし、感謝しかなかったんですけれど、野口五郎さんは僕が『私鉄沿線』をカバーしているYouTubeまで見ていてくださっていて、『歌ってくれて、ありがとう』とまで言ってくださったんです」と。その後、他番組ではデビュー曲『離さない 離さない』を野口の前で披露する機会も得て、「カメラが回っていない場所で、とても褒めていただくことができました」(新浜)という。衣装は新御三家が着ていたものをイメージ 昨今は、音楽番組で、女優やアイドルが昭和歌謡をカバーしているのをよく見かける。だが、歌唱力やパフォーマンスで視聴者を唸らせる場面は、ほとんどないと言っていい。もちろん、本家本元に「ありがとう」と礼を言われたという話も、本家のファンから感謝されたという話も、私は聞いたことがない。いかに新浜レオンの歌唱が素晴らしいかがわかろう。 既にスポーツ紙のベテラン音楽担当記者や音楽情報誌からの取材が増えつつあるのだが、その際、紙(誌)面で新浜が着ているのは、70年代、新御三家が歌番組やコンサートで着ていた衣装に酷似。それらも、おおいに話題となっている。「カバー楽曲を歌うことによって、多くの皆さまに触れる機会が増えた」というスタッフ。こうした戦略も見事に当たっているようだ。 本気で甲子園を目指した球児ならではのスポーツマン体型と、母校・大東文化大学で開催された「ミスター・コンテスト」で優勝した経験をもつ、ファッションモデルのようなルックスは、屋外イベントをしていると、10代や20代の女性たちが立ち止まったり振り返ったりするほどだという。『サンリオ』とのコラボも話題で、公式キャラクター「れおすけ」は、『サンリオキャラクター大賞』にもノミネートされた。そして所属は、これまで演歌や歌謡曲歌手を手掛けたことがない『ビーイング』と聞いて驚いた。「演歌第7世代」の中でも異彩を放つ実力派の超イケメン歌手、新浜レオンに注目だ。◆山田美保子『踊る!さんま御殿!!』(日本テレビ系)などを手がける放送作家。コメンテーターとして『ドデスカ!』(メ〜テレ)、『アップ!』(同)、『バイキングMORE』(フジテレビ系)、『サンデージャポン』(TBS系)に出演中。CM各賞の審査員も務める。
2021.11.18 16:00
NEWSポストセブン
西城秀樹さんが逝去してから早2年(時事通信フォト)
BS放送で話題の西城秀樹さん伝説コンサート 「お前らプロだろ!」の怒号
 西城秀樹さん(享年63)がデビューして今年で50年になる。情熱的な歌唱スタイルと激しいパフォーマンスは多くのファンを惹きつけ、数々の伝説を残した。その1つ、1985年に日本武道館で開催されたコンサートがNHK・BSプレミアムで放送された。このステージが「伝説」になった理由をいま、解き明かす。「鳥肌が立った」、「伝説の大スター」──。10月2日の夜、西城秀樹さんに向けられたコメントが、ネット上にあふれていた。この日、NHKは『伝説のコンサート 西城秀樹デビュー50年スペシャル』(BSプレミアム)と題して、1985年1月に日本武道館で開催されたコンサートのリマスター映像を放送した。最新技術で「4K画質相当」に復元された映像美は、多くの視聴者を魅了。コメントは番組を見た視聴者が書き込んだものだ。 そのコンサート当日のこと。普段は朝にめっぽう弱い西城さんが、その日だけは朝5時に目を覚ました。興奮して寝付けなかったのだという。いまなお人々の胸を打つコンサートは、それだけ西城さんにとっても特別な意味を持つステージだった。悩んでいた時期に決めた「50曲歌っちゃおう!」 西城さんは1972年に歌手デビューすると、年間4~5枚のハイペースでシングルレコードを発表。名実ともにトップアイドルの道を歩んでいた。その西城さんに“迷い”が生じたのは、デビュー11年を迎えた頃だった。「西城さんは1983年1月に、それまで所属していた事務所から数名のスタッフを連れて独立しています。しかし独立後はなかなか思うようにいかず、人気にも陰りが見え始めました。その焦りやプレッシャーの影響もあったのか、翌年2月に体調を崩して、しばらく入院生活を送っています。この頃、今後の活動について自問自答を繰り返していたようです」(ベテラン芸能記者) 退院後の1984年秋、西城さんにとって50曲目の節目となるシングルの発売が決定する。これを受けて西城さんが開催を決めたのが、伝説として語り継がれることになる冒頭のコンサートだ。当時から長年にわたり西城さんのマネジャーを務めてきた片方秀幸さんが語る。「それまでの秀樹さんのコンサートは、洋楽などのカバー曲からスタートして、後半で自分の曲をいくつか披露するというのが定番でした。でもあの武道館コンサートは、秀樹さんから『全部シングルだけで50曲歌っちゃおう』という提案がありました。スタッフからは、『50曲は無謀だろう』という声もあがりましたが、全曲シングルでの開催が決定しました」 全シングル50曲を歌いきるという前代未聞の決断に、西城さんは強いこだわりがあった。当時29才の西城さんは、その心境を『週刊明星』(1986年5月29日号)でこう語っている。《過去の50曲を捨てたわけではないんです。ただ30代でやろうとすることはちがう。今は昔の思い出にひたって歌っていたくない。だから50曲はみなさんの中できちっとファイルしてくださいと。(中略)そんな区切りをつけることがボクには必要でした》 再出発するための挑戦。待ち受けていたのは壮絶な日々だった。「お前らプロだろ! もっとピリっとしろ!」 コンサートに向けた本格的な準備が始まったのは、本番のわずか2か月前。西城さんは多忙を極めていたが、その合間を縫って都内スタジオに入り、打ち合わせやリハーサルに励んだ。「すべての曲をフルでやると5時間以上もかかってしまうため、曲をメドレーにして歌うことになりました。秀樹さんは特に曲と曲のつながりにこだわっていました。準備期間のないなかで、いつもと違うアレンジされた50曲分をマスターするのは至難の業だったでしょう。 音源の入ったテープを移動中の車やテレビ局の楽屋でひたすら聴き、曲の順番や長さを体に叩き込んでいました。当時はデジタル機器も発達しておらず、本番のステージにもいまのように進行表や歌詞カードはありませんでした。秀樹さんはすべて、自己責任で万全の準備をしなければなりませんでした」(前出・片方さん) コンサートを成功させるため、急ピッチで準備が進められた。そして迎えた本番当日、会場の武道館で最後のリハーサルが行われている最中、“事件”は起きた。「秀樹さんはオープニング部分を客席からチェックしていたのですが、会場が暗転する中、緊張感のない様子でスタンバイするバンドメンバーに対し、『お前らプロだろ! もっとピリッとしろ!』と怒号を飛ばしたんです。これには驚きました。 秀樹さんはおおらかな人で、『西城秀樹』のスイッチが入るのはリハーサルが終わり、メイクをし、衣装に着替えてからなんです。本番前は、周囲をリラックスさせるように振る舞うかたでした。 このときの一喝は、絶対にこのステージを成功させる、お前らも同じ気持ちになってくれ、そういう思いがあふれ出たんだと思います」(前出・片方さん) 18時30分。「伝説のコンサート」の幕が上がった。満員の観客席の照明が落ち、ステージ上でダンサーたちが踊り始める。その中に、スポットライトを浴びた西城さんが登場すると、会場に歓声が響き渡った。1曲目の『若き獅子たち』を歌い終え、MCが始まる。《皆さん、こんばんは! 西城秀樹です(中略)皆さんの心の中に1曲1曲いろんな思い出があると思います。何せ50曲歌うわけですから、時間との勝負です。(中略)おれが倒れるかみんなが倒れるか! イエーイ!》 観客も「イエーイ!」と絶叫で返す。その後も西城さんは時折MCを挟みながら、代表曲の『傷だらけのローラ』や『YOUNG MAN(Y.M.C.A.)』などを熱唱していった。のどの奥から絞り出すようにハスキーな声を出す「絶唱型」と呼ばれた独特の歌い方、魂のこもったシャウト、当時の日本ではまだ珍しかった観客とのコール&レスポンスなど、西城さんワールド全開のパフォーマンスが続いていく。 シングル50曲目のお祝いに、大物女優も駆けつけた。西城さんが「東京の母」と慕っていた森光子さん(享年92)だ。「1975年から放送されたドラマ『花吹雪はしご一家』(TBS系)で共演して以来、森さんは秀樹さんを目にかけてくれていました。コンサートに花を添えてほしいと、秀樹さんが森さんにお願いして、来ていただいたんです」(前出・片方さん) 駆けつけた東京の母に、西城さんは粋なサプライズを用意していた。ステージ中央で『ラストシーン』のデュエットを始めると、西城さんは森さんの肩や腰に手をまわし、時折、顔を寄せて見つめ合う。そして2人で歌い終えたときだった。 西城さんがくるりと森さんの方を振り向き、一瞬、唇を重ねたように見えた。西城さんが観客席に顔を戻すと、森さんはうれしさのあまりぴょんぴょんと飛び跳ねるのだった。このキスは、燃え上がった西城さんのアドリブだったという。 約3時間、50曲を歌いきった西城さんは、最後のMCでこう呼びかけた。《50曲といわず100曲、200曲、これからも頑張ろうぜ! 明日へ向かうんだ!》 その声に、もう迷いはなかった。 NHKの放送終了後、反響の大きさに驚きと喜びを感じた人がいる。西城さんの妻・美紀さんだ。「たくさんの反響があったと聞き、秀樹さんがまだ皆さんの記憶の中でしっかりと生き続けていることがわかって、うれしい気持ちになりました。私も番組を見ようと横浜の自宅でスタンバイしていたのですが、放送が始まると天気が急変して雷とともにゲリラ豪雨に見舞われたんです。秀樹さんは雨男で有名でした。家族で、『パパも見てるのかも』と言い合っていました」 伝説は、これからも語り継がれていくのだろう。※女性セブン2021年10月21日号
2021.10.08 16:00
女性セブン
50年代~70年代前半の“いい男”たち 「寡黙で無骨」から「中性的」に
50年代~70年代前半の“いい男”たち 「寡黙で無骨」から「中性的」に
 映画やドラマ、音楽界など、エンターテインメントの世界には、いつの時代にも“いい男”がいる。そして、人気を集める“いい男”のタイプは、時代とともに変わっていく──。 1950年代は映画黄金期だ。「『ローマの休日』(1954年日本初公開)などの洋画上映も本格化し、人々の欧米文化に対する憧れが強い時代だった」 そう振り返るのは、世代・トレンド評論家で立教大学大学院客員教授の牛窪恵さん。「そんな中、欧米人に負けず劣らずの股下80cmのスタイルを持つ、石原裕次郎さん(享年52)が登場。男女問わず憧れの存在に。この頃は、顔だちがいいだけでなく、立ち姿もかっこいい人が“いい男”として支持を集めていました」(牛窪さん・以下同) 俳優は“銀幕のスター”と呼ばれ、手の届かない存在。「彼らは映画代を払ってでも見たい美しい存在だったので、スターは、夢を壊さないために生活感を出さず、食事風景すら隠す俳優も多かった。高倉健さん(享年83)のように寡黙で私生活が一切見えず、ミステリアスな雰囲気を漂わせている、そんな男性に女性たちは憧れたのです」 その流れは1960年代以降も続いていく。ヒッピー文化の影響でいい男は短髪から長髪へ 1960年代に入ると、東京五輪(1964年)を機に一般家庭にテレビが普及。1960年に44.7%だった白黒テレビの世帯普及率は、1964年に87.8%に倍増した。「テレビの普及がいい男の幅を大きく広げた」。そう分析するのは、イケメン評論家として情報番組などに出演し、2004年から「いい男祭り」を企画・主催している沖直実さんだ。「1961年に『シャボン玉ホリデー』(日本テレビ系)のような音楽バラエティー番組が次々に制作されるようになるとスターが身近な存在に。 俳優として映画に出演し、テレビでは歌を歌う。そんな若きスターが生まれたのもこの時期。西郷輝彦さん(74才)、橋幸夫さん(78才)、舟木一夫さん(76才)の御三家がまさにそう。 端正な顔立ちの西郷さん、切れ長の目元が涼しい橋さん、笑顔が愛くるしい舟木さんと、それぞれの個性が光り、女性たちは、それぞれ好みの人を応援するようになりました」(沖さん・以下同) 1960年代半ばになると、それまでの、寡黙で無骨な男性像が一変する。「ザ・ビートルズの来日やグループサウンズブームで、ザ・タイガースの沢田研二さん(73才)のように、華奢で中性的なルックスの男性が人気を集めるようになりました。 このときアメリカでは、長髪に裾が広がったパンタロンをはくヒッピー文化が起こり、日本にもそのブームが到来。吉田拓郎さん(75才)など髪を伸ばしたフォーク歌手が登場し、既存の価値観に反発するスタイルが生まれました」 ヒッピースタイルを真似る若者が全国にあふれ、スターの長髪はスタンダードになっていく。「そのうち、同じ長髪でさまざまな個性が誕生してきます。その象徴が、郷ひろみさん(65才)。 新御三家といわれた西城秀樹さん(享年63)は、長髪にすることで男性特有のセクシーさが前面に出ていましたが、郷さんは最初、“女の子”と見間違えるほどフェミニンさが際立ちました。 そこから城みちるさん(63才)、あいざき進也さん(64才)といった中性的なルックスのスターが人気となり、この頃から女性が男性に対し、“かわいい”という感情を持つようになったのです。 1960年代前半、すでに複数の女性週刊誌はありましたが、いまほどの情報量はなく、スターの私生活は、まだベールに包まれていたといわれています」(牛窪さん)取材・文/廉屋友美乃※女性セブン2021年9月9日号
2021.08.29 16:00
女性セブン
浅田美代子が語る 西城秀樹さん秘話「収録中にものすごく食べていた」
浅田美代子が語る 西城秀樹さん秘話「収録中にものすごく食べていた」
 作曲家の小林亜星さん(享年88)が、5月30日に心不全で息を引き取った。俳優としての一面もあった亜星さんの代表作といえば、ホームドラマ『寺内貫太郎一家』(TBS系)だ。昭和49年に放送が始まり、スペシャル版も含めると約30年にわたって放送された。 亜星さんは、その寺内一家の頑固おやじ・貫太郎を演じた。寺内一家のお手伝いさん、ミヨコ役を演じた女優の浅田美代子(65才)は「(樹木)希林さんやヒデキ(西城秀樹)に続いて、亜星さんも旅立ってしまって本当に寂しくて……」と語る。 伝説のドラマが作られた現場は、ドラマと同じか、それ以上に「家族的」だった。浅田が言う。「当時は実家からスタジオに通っていたのですが、両親よりも貫太郎一家といる時間の方が長かった(笑い)。撮影と稽古が週に5日あって、撮影日には毎朝9時にその日の撮影者全員が集合します。だから出番が被らない演者さんとも、現場で挨拶をして顔を合わせている状態でした。最近のドラマでは、打ち上げで“はじめまして”の人もいます。いまの方が効率はいいのでしょうが、貫太郎一家の一体感も忘れられません」 家庭的で温かい現場だったが、求められる演技のレベルは高かった。「久世(演出の故・久世光彦)さんには何度も『形で芝居をするな』と言われました。ト書きに《ミヨコ泣く》と書いてあったシーンで、『泣こうとする芝居をするな』と叱られたことは、いまでもよく思い出します。『気持ちがあれば通じるから、涙は出なくてもいい』とおっしゃるけれど、なかなかうまくできない。そのうえ、台本にないアドリブも頻繁に入る。希林さんなんて、急にスカートをめくってくるので、びっくりです。素で『おばあちゃん!』ってリアクションしていました(笑い)」(浅田) 苦しくも得がたい経験によって、女優として大きく成長したと浅田は言葉を続ける。「貫太郎で学んだことはほかの作品にも生きています。たとえば『釣りバカ日誌』でハマちゃんの妻の役をいただいたときに、『アドリブの多い現場だけど大丈夫ですか?』と聞かれましたが、私にとってはそれが当たり前。ハマちゃんやスーさんがどんな無茶ぶりをしても、“ミヨちゃん”の経験を糧に応えることができました」ヒデキを感激させたうまい「消え物」「劇中で食卓を囲むシーンがあると、西城くん、ものすごく食べるんだよ。TBSが用意するご飯がおいしいから(笑い)」 亜星さんが生前に語っていた通り、ドラマの名物だったちゃぶ台に家族が集まって食事するシーンでは、「ばあちゃん、きったねえな」などと悪態をついたり口論しながらも演者はみんな、おいしそうに食卓に並んだご飯に箸をつけていた。 脚本家の故・向田邦子さんのこだわりで、献立は「白菜の漬けもの、昨日の残りの煮付け」など、事細かに決まっていた。「おいしくて、みんなカットがかかっても食べ続けるから、美術さんが次のシーンの準備をできずに困るほどでした。特にヒデキはひとり暮らしだったから、ああいう家庭的なメニューがうれしかったみたいで、たくさん食べていましたよ。おみそ汁など、大鍋でいっぺんにたくさん作るから、よけいにおいしかったのかもしれません」(浅田) 文字通り“同じ釜の飯”を食べ、家族として長く共に過ごすうちに、出演者同士の間では強い絆が生まれた。希林さんは浅田にとって母親のような存在だった。「私とヒデキのことを、希林さんはいつも心配してくれていた。私はまだ子供だったし、ヒデキも若かったから、芸能界で生きていけるのか、気を揉んでくださったのだと思います。『役者が演じるのは人なのだから、特別にならずに普通でいろ』『お付きの人がいないとデパートにも行けないようじゃダメ』と言われたのは、印象に残っています」 私生活でも長く、深い交流が続いた。「プライベートでは『物を捨てて整理しろ』と言われていました。『癌は、やまいだれに品の山と書くのよ』とおっしゃっていた希林さんの家は、本当に何もないの。だから遊びに行ってうちに帰ってくると、その落差にいつもがっかりしていました(笑い)。 私が離婚した後は、“これは再婚しそうもないな”と思ったのか、希林さんは“家を買いなさい”とアドバイスしてくれた。反対に40才になっても独身だったヒデキには“あんたどうすんの”と会うたびに発破をかけていました。“ミヨコには家を、ヒデキには嫁を”が希林さんの口癖でした(笑い)」(浅田) 2019年に発表された東京における三世代同居家族の割合は、わずか1.8%。夫婦・家族問題評論家の池内ひろ美さんがこんな指摘をする。「いまや貫太郎一家のような家庭はほとんどないということ。きんばあちゃんだって、もし現代ならば高齢者施設に入ったり、ひとり暮らしをしているかもしれない。最近はおひとりさまで迎える老後がはやっていますが、ドラマを通して、家族に囲まれて年を重ねることが幸せだと、あらためて気づいた人が多いのではないでしょうか。いまの視聴者は貫太郎一家に自分自身を投影し、大家族への憧憬をかきたてているのだと思います」 浅田も、いまこそホームドラマが必要だと声をそろえる。「たとえ家族で暮らしていても最近では家の中で『ご飯できたよ』などとスマホで連絡を取る家庭があるそうで、なんだか寂しいです。私は、コロナ禍は家族の絆についてあらためて考え直せるいい機会だと思っています。だからこそ、“貫太郎”が昭和を代表する作品だったように、いまの時代ならではのホームドラマが生まれるといいな、と思っています」(浅田) 小さなちゃぶ台を家族全員で囲み、時には取っ組み合いのけんかをしながら、お互いを許し合って生きていく。そんな家族の在り方に憧れを抱くのは、「失敗」や「ぶつかり合い」を過度に恐れるいまの時代への反発なのかもしれない。向田さんの妹・和子さんは、最近はコンプライアンスを含めて、失敗やぶつかり合いを恐れすぎている気がすると話す。「失敗しないように行動すると、それ以上にもそれ以下にもならない。あのドラマは演技の経験のない歌手を主演にキャスティングしたり、生放送を取り入れたり、失敗やぶつかり合いを恐れずに久世さんや姉が新しいこと、やりたいことをどんどん取り入れていった。 貫太郎は短気だし、家族げんかも多かったけれど、お互いのダメな部分を認め合い、許し合っている。家族なのに言いたいことが言えない関係は、本当に寂しいと思う」 奇跡のドラマは「失敗を恐れない」精神から生まれたのかもしれない──。※女性セブン2021年7月22日号
2021.07.13 16:00
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