PL学園一覧/3ページ
【PL学園】に関するニュースを集めたページです。

龍谷大平安 監督がユニフォーム変更を阻止した時の壮絶覚悟
春1回、夏3回の甲子園制覇を誇る京都の名門・龍谷大平安(以下、平安)を率いて26年目の原田英彦の目は赤らんでいた。少年期に憧れ、高校時代に袖を通し、58歳の現在も身に纏う伝統のユニフォームの話題となると、つい感情が込み上げてくる。「中学生の頃、初めて平安の試合を見た日、純白の生地に、シンプルな『HEIAN』の5文字が鮮烈に飛び込んできました。実際にユニフォームを着た時は、感動のあまり鏡の前で何時間も立っていましたね。ユニフォームは戦闘服。今でも自分で洗濯し、アイロンをかけ、綺麗な折り目をつけて試合に臨みます」 PL学園が甲子園を席巻した1980年代から、屈強に鍛え上げた肉体を誇示するように、ストレッチの効いたぴったりめのユニフォームを着ることが高校野球の主流となった。 しかし、平安ナインは大きめのズボンをベルトで絞り、“ニッカーボッカー”のように着こなす「オールドスタイル」にこだわってきた。「体を、特に下半身を大きく見せるのが目的です。以前の甲子園出場時、ユニフォームをクリーニングに出すと、ズボンが縮んで返って来た。すると、選手が(カッコ良くなったと)喜んでいたんです(笑)。そこで少し細身のズボンを許容したら、2014年の選抜で優勝できました」 創部100年の2008年、平安は龍谷大の付属校となり、デザイン変更案が浮上。これに原田は断固として反対した。「帽子のロゴを龍谷大の『R』にするとか、胸に大学名を入れるという噂があり、私は当時の学長に直訴した。“デザインを変えるなら、ユニフォームを抱いて学校の屋上から飛び降ります”と。最終的には、左肩に漢字で『龍谷大学』とできうる最小の刺繍を入れることで落ち着きました」 ベンチ入りメンバーは、夏の予選と春夏の甲子園だけは胸の文字が刺繍のユニフォームを着る。スタンドで応援する選手は、胸の文字がプリントされたものだ。ユニフォームを差別化し神聖化することで、部員の競争を促すのだ。「誰もが手にできるものではないからこそ、引き継がれていく伝統がある。着られなくなったユニフォームも、捨てません。すべて保存しておいて、OBが集まった時などにプレゼントすることもある。“メルカリで売るなよ!”と注意しています(笑)」 平安は昨夏の100回大会で、甲子園100勝を達成した。今年の選抜では、ズボンをもうひと回り細身に変更し、2014年以来の日本一を目指す。(文中敬称略)◆取材・文/柳川悠二(ノンフィクションライター)※週刊ポスト2019年4月5日号
2019.03.25 07:00
週刊ポスト

ピエール瀧 逮捕で「ピエール学園どうなる」と不安の声
「高橋由伸」「菅野智之」「山本浩二」「有吉弘行」「山崎まさよし」……野球関係者や、野球好きとして知られる有名人らのサインがズラリと並ぶ中で、ポッカリと不自然な穴が開いていた。それは、コカインを使用していたとして逮捕されたピエール瀧のサインが掲げられていた場所だった──。 東京・世田谷にあるバッティングセンターは、その場所柄、多くの有名人が訪れる。関係者が語る。「今回の逮捕を受けての対応のようです。4~5年ぐらい前に一人でいらして、サインにも快く応じてくれました。とても人当りのいい方だったので、今回のニュースを見てすごくショックでした」 同バッティングセンターの副支配人は、「やはりあのような報道があったので、親子連れのお客様も多いですし、影響も考えて色紙を外したほうがいいという判断をしました」とコメントした。大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』や出演映画などの撮り直し・代役の必要性などが話題になっているが、芸能界以外にも「コカイン逮捕」の影響が広がっているのだ。 ピエール瀧がライフワークとしている草野球への影響も懸念されている。芸能関係者が語る。「高校まで野球部に所属し、阪神タイガースの入団テストを受けたこともある瀧さんは20年ほど前から『ピエール学園』という草野球チームを率いています。このネーミングは同い年のスター選手である清原和博や桑田真澄がいたPL学園と自分の芸名を引っかけたもの。現在はTOKYO大リーグという名のリーグ戦に名を連ね、芸人のマキタスポーツや他のアーティストのチームとしょっちゅう早朝野球をしています。 毎年リーグの納会にも顔を出し、このリーグ戦の顔とも言える存在。『瀧さんがいなくなって、リーグ戦はどうなるんだろ……』と不安がる声があがっています。一方、『ドラマや映画の撮影で忙しいときも休まず早朝野球に参加し、やたら元気だったのはクスリのせいだったのか』『復帰しても清原をほうふつとさせるチーム名で大丈夫なのか』というネガティブな声もあるそうです」 草野球といっても、芸能人や音楽関係者が数多く参加し、業界の野球ファン人脈をつなぐ拠点になってきたリーグでありチームなのだ。 ピエール瀧は、レギュラー出演しているTBSラジオ『たまむすび』の中で「リーグ戦で5連敗」していたことをはじめ草野球の話を定番ネタにするほど、このチームを愛していた。彼がまたグラウンドに立つ日は来るのだろうか。
2019.03.17 07:00
NEWSポストセブン

中日・根尾昂の「一刀流」で割を食う先輩選手は?
大阪桐蔭で甲子園春夏連覇を達成し、中日にドラフト1指名されたルーキー・根尾昂(18)だが、右ふくらはぎの肉離れによりキャンプは二軍スタートに。しかし、開幕に向けた期待はむしろ高まっている。「超高校級。普通にやれば(1年目から)いける」 1月中旬にナゴヤ球場での選手会合同自主トレを訪れた中日OB・宇野勝氏は、囲み取材で根尾をそう絶賛した。同じショートを守り、1984年には本塁打王に輝いた宇野氏の言葉に、因縁を感じる関係者は少なくない。「1988年に宇野から定位置を奪ったのが、PL学園で春夏連覇を果たして入団した新人の立浪和義でした。立浪は開幕戦で2番ショートに抜擢され、宇野はセカンドにコンバートされた。根尾がポジションを争うのは2017年新人王の京田(陽太、24)だが、立浪の時のようにコンバートされるのか。キャンプの最注目ポイントだ」(スポーツ紙デスク) 高校時代は投手、外野手もこなしたが、「ショート一本での起用は現実味がある」(中日新聞関係者)とみられている。「何しろ自主トレの段階から根尾人気が凄まじく、スタンドが開放された日は連日超満員。早ければ2月7日の第2クールから一軍キャンプに合流させる予定だ。昨季の集客も松坂(大輔)頼みだったことを考えれば、首脳陣は根尾がやりやすいポジションで使うつもりだろう。今オフ、京田の年俸はアップし、背番号も『1』に“昇格”したが、コンバートしても納得するように球団が事前に“誠意”を見せたのではないか」 立浪氏は1988年の新人王に輝き、チームはリーグ優勝を果たした。根尾はどこまで“再現”できるか。※週刊ポスト2019年2月15・22日号
2019.02.05 16:00
週刊ポスト

平成の名勝負 延長17回を戦った松坂キラーが語る「怪物」
高校野球ファンならずとも鮮烈に記憶に残る平成10年(1998年)8月20日、夏の甲子園で横浜高校とPL学園の間で繰り広げられた延長17回の熱闘。“平成の怪物”松坂大輔と相対したPL出身の元プロ野球選手・大西宏明氏が述懐した。 * * * PL学園は甲子園に出場するのが目標ではなく、全国制覇しなければならない──そう教えられてきた私たちが絶対に越えなければならない壁、それが「平成の怪物」松坂大輔でした。この1998年の夏の甲子園、延長17回の試合ばかり注目されますが、実は松坂の横浜とは同年のセンバツでも準決勝で対戦しています。この時も7回を終わってPLが2対0でリードしていましたが8回に追いつかれ、9回に決勝点を奪われ敗北。松坂の横浜に勝たない限り、日本一になれないと悟った瞬間でしたね。 それから夏の大会に向けて、徹底的に松坂をイメージした練習をしていました。練習は大会中も行なわれ、勝てば横浜との対戦が決まっていた3回戦の佐賀学園戦に勝利した後、宿舎から富田林にある学校のグラウンドに戻り、翌日の横浜戦に備えて打撃練習をしたほどです。ピッチャーをマウンドより前から投げさせて速球に目を慣れさせる練習をやっていました。 試合はリードしては追いつかれの展開で延長に突入。11回には僕のタイムリーで追いつきました。初球のカーブを無我夢中で振った、とてもクリーンヒットと呼べるものではなかったですが、試合を終わらせたくない一心でした。結局、17回に2ランを打たれ敗れました。 当時はもちろん勝てると思って試合に臨んでいましたが、20年経って冷静になってみると、PL学園という看板を背負っていたから互角に戦えたものの、どう考えても横浜の方が圧倒的に強かったと思います。この勝利は偶然ではなく、1人で250球を投げ抜いた松坂の実力に裏付けられたものです。その後の決勝戦でノーヒットノーランをやってのけたことが証明しています。 僕は春夏通して松坂から5安打を放ち、「松坂キラー」というありがたい名前をつけてもらいましたが、彼ははっきり言って次元が違いました。だってプロ1年目でいきなり16勝で最多勝ですよ。PLの先輩、片岡篤史さんが初登板の松坂に155キロのストレートで三振に打ち取られ、イチローさんがスライダーに腰を引いた。プロでも打てない球を投げる投手に、高校生が勝てるわけがないですよ。 同時代に野球をしていただけですが、松坂世代と呼ばれることを誇りに思っています。※週刊ポスト2019年2月1日号
2019.01.23 07:00
週刊ポスト

桑田真澄氏、新OB会長に就任でPL野球部の復活はあるか
甲子園制覇7度を誇るPL学園の硬式野球部が活動を停止してから2年半──。再開を目指すOB会は年明け恒例の総会(1月12日)で、新会長に桑田真澄氏が就任したことを報告した。「あれほど実績があるのに廃部になったのは、OBにも責任がある。暴力事件や厳しすぎる上下関係がありましたから。(会長として)再開できるのかどうか、方向性を白黒はっきりさせていきたい」(桑田氏) 清原和博氏と共に甲子園に1年夏から5季連続出場し、在学中に聖地に20勝を刻んだ大投手の会長就任は、いわば野球部復活に向けた切り札、最終手段である。 桑田氏が抜擢されたのは、知名度や実績だけの理由ではない。カギは「教団」だ。 活動休止後、OB会は学校長と話し合いの場を設け、復活に向けた嘆願書も提出してきた。しかし、現校長の正井啓介氏は昨夏、筆者に対し、「再開はありません」と断言し、決定権を持つ学園の母体・パーフェクトリバティー教団の三代教祖・御木貴日止(みきたかひと)氏や幹部らにも、嘆願書を渡していないことを明かしていた。OB会と教団には大きな隔たりが存在した。そこで、桑田氏の登場なのである。桑田氏はいう。「教団あっての野球部。教団とのコミュニケーションが大事だと思います。なんとか、教団の方とお話しできるように……。それが復活に向けた第一歩になる」 前会長の鶴岡秀樹氏(ミズノ常務)も、パイプ役としての役割を期待する。「桑田さんは、一般的なお墓参りにあたる奥津城(おくつき=歴代教祖が眠る墓)参りも毎年欠かさず、教団との距離が非常に近い方。最高の人材だと思います」 だが、学園側にも簡単には再開できない事情がある。入試では大きく定員割れし、1学年2クラス、50人あまりの生徒しか在籍していない。昨夏まで大阪府内の強豪だった軟式野球部も、活動こそ続いているものの、公式戦出場が不可能な数の部員しかいない。さらに硬式野球部なき今、生徒のほとんどが教団信者の2世・3世となり、信者数が先細るなか、今後、より厳しい学校運営を迫られるはずだ。 80人以上のプロ野球選手を輩出した野球部のOB会が母校の経営に手を差しのべるような策ぐらいしか、名門復活の可能性は残されていないのではないか。●取材・構成/柳川悠二(ノンフィクションライター)※週刊ポスト2019年2月1日号
2019.01.21 07:00
週刊ポスト

大阪桐蔭・西谷監督「全部勝ちたい。だから余裕は全くない」
「平成最後」の甲子園を春夏連覇した西谷浩一監督インタビューの最終回(第3回)。大阪桐蔭を長く取材するスポーツジャーナリストの古内義明氏が、高校野球の問題点、歴代最多優勝監督、そして、新しい元号を迎える今季の目標などを訊いた。──何をしている時、気持ちが休まりますか?西谷監督:趣味は特にありません。趣味を持てるような人になりたいです(笑)。余裕がない人間ですね。結果として、「365日24時間」、野球のことばかり考えることになります。──プロ野球やメジャーリーグなど、野球は観ますか?西谷監督:ゆっくりと観ることはあまりないですが、メジャーリーグもプロ野球も時間があれば観ます。また、教え子の選手情報は自然と入ってきます。寮の壁には上の舞台で活躍する選手の新聞の切り抜き張っています。都市対抗野球や明治神宮大会で出場選手名簿が出たら、蛍光ペンで塗って、壁に張っています。大阪桐蔭高校OBが活躍していることを、今いる選手たちにできるだけ目に入れるようにしています。──タイブレークや球数制限など、新たなルールが出てきましたが一番気になることはな何でしょう。西谷監督:タイブレークはまだ実際に体験したことはないです。昨年の春の選抜、準決勝の三重高校戦は、延長12回まで進み、タイブレークの事も考えながら采配はしましたが、3対2でサヨナラ勝ちできたので、まだ未体験です。 時代の流れでタイブレークになっていくことは仕方がないことです。グラウンドに立つ指導者としては、人工的に作られた点の取れる状況ではなく、最後まで同じ状況でプレーさせてあげたいという思いを持っていると思います。 球数制限も小学校や中学校では、世界的な流れになってきています。近い将来は球数制限も導入されてくると思います。昨年の甲子園は4名の投手(柿木蓮、根尾昴、横川凱、森本昂佑)を登録し、1名が怪我をして実際は3名の投手で回したように、投手に関しては一人で完投させるということは考えていません。──野球人口が激減している中で、今後の高校野球がどのようになっていくと思いますか?西谷監督:昔の感覚では野球の人材不足はないと思っていましたが、時代は変化してきているので、何か考えていかなければいけません。中学生の部員数減少の余波は、必ず高校野球にも影響してきますので、あぐらをかいていたらいけないと思います。 例えば、大阪桐蔭女子サッカー部では、サッカーに親しんでもらうために中学生のためのクラブチームを立ち上げたりしています。クラブチームから持ち上がり、大阪桐蔭で活躍してもらうように、自らの手で競技人口を増やす活動をサッカー界はしています。これは高校球界にはまだない活動です。全員が幼い時から野球に慣れ親しむ環境では無くなってきているので、野球界も土壌を耕すような活動をしていかなければならないと思います。──何か具体的なアイデアをお持ちですか?西谷監督:100回の歴史を紡いできた伝統のある甲子園ですから、150回、200回の将来に目を向けていかないといけません。将来の野球界は将来の人々の責任ではなく、今携わっているものの使命だと思います。 昨年6月16日に香川県に招待試合で行ったとき、試合後にキャッチボール・イベントに参加しました。野球界の未来を担う子供たちは高校野球選手を前にして、目が輝いていたので、貢献できれば良いと感じました。 U18アジア選手権に出場した高校日本代表の壮行試合で、神宮球場で、小学1〜3年生を対象にした野球教室を開催したのは素晴らしいことだと思います。学生野球憲章の範囲の中で、少年たちとそんな触れ合いをしていければいいです。プロ野球選手はみんなの憧れですが、高校野球も憧れの近所のお兄ちゃんとしての役割を果たせたら良いと考えています。──高校野球の1番の魅力は何だと考えていますか。西谷監督:チーム全員の気持ちが一つになり、勝った時は嬉しいです。今回のチームはただ優勝しただけではなく、試合に出ることのできない選手たちも頑張ってくれた学年で、良いチームだったと思います。──甲子園の舞台で、春夏通算7度目の全国制覇は歴代最多ですが、平成という時代を振り返ってください。西谷監督:「どうしたらPL学園に勝てるだろうか」ということを考えてきたのが監督人生の始まりでした。「いつかPL学園に勝てるチームを作りたい」と思って、毎日練習して、駆け抜けたのが平成という時代だったと思います。そのPL学園野球部がなくなってしまうことなど、想像もできませんでした。 先日、日本高野連の育成功労者表彰を受賞した横浜野球部前監督・渡辺元智氏 の「受賞を祝う集い」で、天理高校の中村良二監督、智辯和歌山の高嶋仁監督、明徳義塾の馬淵史郎監督などと、同じテーブルになり、何か感慨深い気持ちになりました。──甲子園や神宮でも「44年会」の同級生監督が大活躍しています。西谷監督:全国制覇したのが、長崎県立清峰高校で吉田洸二監督(現山梨学院監督)や花咲徳栄の岩井隆監督がいます。大学野球では、日本体育大学の古城隆利監督、上武大学の谷口英規監督、慶応義塾大学の大久保秀昭監督などがいます。──これからは目標であり、追われる立場になるわけですね。西谷監督:そうですね(笑)。50歳になりますが、未だに甲子園では最年少監督の感覚があります。横浜高校の渡辺前監督、帝京高校の前田三夫監督、常総学院の木内幸男前監督、大垣日大の阪口慶三監督、智辯和歌山の高嶋前監督、明徳義塾の馬淵監督のような、大監督の先輩たちの中にまだいるような感覚だからです。今、甲子園の監督会議で名刺交換をすると、皆さん自分より若い監督が増えたと思います。 昨年の夏の甲子園1回戦で、小針崇宏監督が率いる作新学院と試合をしました。小針監督は大阪桐蔭OBで言えば、中村剛也(埼玉西武ライオンズ)と同じ世代なので、正直やりにくかったです。昔は渡辺前監督を「絶対に倒してやる!」と思って戦っていましたが、小針監督に、「よろしくお願いします」と言われたら何か拍子抜けしました。考えれば、50歳といえば、甲子園出場監督の中ではベテランの域ですが、その感覚がまだありません。これからそのギャップを埋めていかなければならないと思います。どっしりと構えていきたいですが、まだ複雑な気持ちです。──年上の監督の方が、チャレンジャー精神に火が付きますか?西谷監督:勝ちやすいのではなく、向かっていくことが出来ます。特に、私が高校時代に采配をしていた大監督には、「当たって砕けろの精神」で勝負できます。一方で、年下の監督は負けることが出来ない気持ちになります。──ご自身が節目の50歳になられることは意識されますか。西谷監督:まだ、引退のような先のことを考えたことはありません。その場、その場を必死にこなしているだけです。春夏連覇しても、すぐに秋季大会、そして春季大会を迎えるので、その余韻に浸っている暇はないです。ただ今までは考えたことが無かったのですが、50歳になるいまだからこそ、これからどうするかを考えなければいけないと思っています。──平成が終わり、新しい元号の年になりますが、今後の目標は?西谷監督:毎日、しっかり子供たちと向き合い、大阪桐蔭に進学して良かったと思ってもらいたいです。その中で勝ちたいですし、OBたちには活躍して、いつまでも刺激を与える選手でいて欲しいと思っています。その中で、勝つことは分かりやすい目標の一つです。私は、全部勝ちたいと思って、戦っています。だからこそ、私には余裕は全くないのです。【PROFILE】◯西谷浩一(にしたに・こういち)/1969年9月12日、兵庫県出身。現役時代は捕手で報徳学園高から関西大。卒業後は大阪桐蔭高コーチを経て1998年秋に同高監督に就任し、一度コーチに退いた後、2004年から再び監督として指揮を執る。甲子園春夏の通算成績は16回の出場で、55勝9敗。昨夏の甲子園で春夏通算7度目の全国制覇で歴代最多優勝監督となり、史上初の2度目の春夏連覇も達成した。教え子に中村剛也(埼玉西武ライオンズ)、中田翔(北海道日本ハムファイターズ)、藤浪晋太郎(阪神タイガース)などを輩出し、昨年は根尾昴(中日ドラゴンズ)や藤原恭大(千葉ロッテマリーンズ)など4人のプロ野球選手を誕生させた。社会科教論。◯古内義明(ふるうち・よしあき)/1968年7月7日生まれ。立教大学法学部卒、同時に体育会野球部出身。高校・大学球児向け「サムライベースボール」発行人として、これまで数百校の高校を取材し、アマチュア関係者と独自の人脈を構築。近著に、『4千分の1の名将 新・高校野球学【関西編】』(大和書房)がある。(株)マスターズスポーツマネジメント代表取締役、テレビやラジオで高校野球からメジャーリーグまで多角的に分析する情報発信。立教大学では、「スポーツビジネス論~メジャーの1兆円ビジネス」の教鞭を執る。
2019.01.03 16:00
NEWSポストセブン

江川・KKから根尾・吉田まで…「ドラフト1位指名」53年史
4球団競合の末に、中日が大阪桐蔭・根尾昂の交渉権を獲得し、金足農・吉田輝星を日本ハムが外れ1位で指名──ドラフトの歴史に新たなページが刻まれた。その光景は、50年以上にわたる数々のドラマ・内幕を知る“伝説のスカウト”の目には、どう映ったのか。ノンフィクションライターの柳川悠二氏がリポートする(文中敬称略)。 * * *◆「故障を知らずに1位指名」 1965年11月17日、プロ野球ドラフト会議は初めて開催された。男は、53年前の記憶の断片をつなぎあわせるように口を開き始めた。「非常にファジーな形でドラフト会議はスタートし、各球団が見切り発車で選手を指名していた。ですから、契約したもののまったく使い物にならなかった選手もいた。江川(卓)の事件や他の不正もあって、ドラフト制度は大きく変わり、今はクリーンに整備されている。そういった機運を作ったのは、やはり1985年のKK(桑田真澄、清原和博)のドラフトだと思います」 82歳になる男の名は井元俊秀。長く高校野球に携わる者に、彼が残した足跡はよく知られている。現在は秋田・明桜高校に籍を置く井元であるが、2002年までPL学園で全国の選手をスカウト(選手勧誘)する仕事に従事し、KKコンビや立浪和義らを同校に導き、常勝軍団を陰から作り上げた。 井元はPL学園1期生であり、同校を卒業後、学習院大学に入学。同大が初めてにして唯一、東都大学リーグを制した“神宮の奇跡”の時のエースだった。 卒業後、PL学園野球部の監督に就任すると、1962年の選抜で甲子園に初出場を果たす。その後、選手の進学先の世話に悩み、野球人脈を築こうとスポーツニッポンの記者に転身。新米記者として派遣された現場が、第1回ドラフト会議だった。「かつてのプロ野球界には、伝説を持つスカウトがたくさんいました」と井元はいう。阪神、東京オリオンズのスカウトを歴任した“マムシの一三”こと青木一三や“スカウトの神様”と呼ばれた広島の木庭教、そして中日の柴田崎雄──。「そうしたスカウトたちが、自由競争で選手を獲得していたのが1965年以前。しかし、いろいろと暗躍する人も多かった。あるひとりの選手の獲得に熱心な球団の横から、別の球団が『うちはこれだけ(契約金を)出すよ』と獲る気もないのに大きな金額を提示する。すると先に声をかけていた球団は条件を釣り上げますよね。そうした嫌がらせが横行し、契約金が高騰していた」 井元がスポニチに入社した1964年、東京オリオンズに上尾高校の山崎裕之の入団が決まった。契約金は史上最高額となる5000万円。そうした高騰を防ぐため、翌年からドラフト会議が実施された。「初めてのことで、リストに挙げていた選手を他に獲られたりしたらもうてんやわんや。『休憩をくれ』と言い出す球団まであった」 その日、大洋に1位指名されたのが、岡正光(保原高)という左腕。しかし入団後、ヒジの故障が発覚する。井元は翌1966年に大洋の担当記者としてキャンプを取材。この新人投手がブルペンで投げた瞬間、「あちゃー」と落胆する大洋首脳陣の声が聞こえたという。◆桑田・清原「二本釣り」計画 1968年には法政大の田淵幸一が阪神に、同じく山本浩二が広島に、明治大の星野仙一が中日に指名された。大豊作のドラフトであった。井元は翌1969年にはPLに戻り、教え子をプロに送り出すスカウトという立場でドラフトとかかわってゆく。 ドラフトにまつわる二大事件といえば、巨人が制度の盲点を突き、1978年のドラフト前日に江川卓と電撃契約をかわした「空白の一日」事件。そして、井元がPLに導いた清原、桑田の命運が、真っ二つに分かれた1985年のKKドラフトであろう。井元の負った傷も深い。「既に亡くなっている人も多く、真相というのは、誰にも分からない。私にも、そして桑田にも。とにかくあのドラフトはPLにかかわるすべての人間にとって不幸な出来事だった」 5季連続で甲子園に出場し、20勝を挙げた桑田と、春夏通算13本塁打を放った清原。桑田はドラフトを前に早稲田大への進学を表明し、清原はファンであった巨人への入団希望を公言してやまなかった。 しかし、ふたを開けてみれば、巨人が桑田を単独指名。清原は6球団の競合となり、西武が交渉権を獲得した。清原に同情の声が寄せられ、巨人と密約があったのではないかと、桑田には非難の目が向けられた。そして、この事件の黒幕と噂されたのが井元だ。しかし井元はKKの進路にはまるで関与していなかった。「桑田を早稲田の練習に連れて行ったことはありましたが……。だからドラフト会議の日も、僕は自宅で寝ておった。そこに飛び込んできたのが桑田だった。『先生、僕は巨人とできてなんていません』と。しばらくして、清原の母親が我が家を訪れ、『どうしてこんなことになるんですか』と……。家内は泣いてしまってね。うちの息子が同級生でしたから、親同士、仲が良かったんですよ」 もし巨人が桑田を指名していなければ、KKは揃って西武に入団したのではないか──改めて振り返っても、そんな思いが巡る。 西武では当時、管理部長として“球界の寝業師”と呼ばれた根本陸夫が辣腕を振るっていた。根本に可愛がられていた井元は、中学生でも有望な選手を見つけたら囲い込むような強引な手腕に驚かされながら、そのスカウト術に多くを学んだ。「西武は情報を絶対に漏らさず、独自のドラフト路線を貫いていた。これはあくまで私の憶測ですが、根本さんはKKの二本釣りを狙っていたのではないでしょうか。早稲田進学が有力視されていた桑田よりも、清原の方が競合になる可能性があった。だからまず、清原を獲りに行った。もし西武が両取りに成功していたら、誰も傷つかなかったという思いは抱えています」 井元は後年、江川が桑田に対し、こんな発言をしたという話を耳にした。「お前は良かったな。俺のプロ入りは他人が決めたけど、お前は早稲田にするか、巨人に入るかを自分の意志で決められたんだから」 ドラフトは、時に有望選手の人生を狂わせてきた。◆高卒プロ入りがいいとは思わない しかし、井元にはドラフトに対する信念がある。「それはね、クジになろうが、ドラフトで決まる球団が、その選手に最も相応しい球団だろうということ」 8球団が競合した1989年の野茂英雄や1998年の松坂大輔ら、井元が直接、関わっていないスターたちに対しても、その思いは同じだ。ドラフトとは運否天賦で、決まった球団が最良の道──。 1987年に春夏連覇を達成した時の主将である立浪には、当時の南海監督・杉浦忠がご執心だった。しかし、中日の星野仙一も後発ながら名乗りを上げ、ドラフト前にその理由を井元が問うと、星野は「立浪が来てくれたら中日のショートは10年は安泰だ」と答えたという。その星野が、クジを引き当てる。直後、井元は杉浦からこんな言葉をもらった。「申し訳ない。日頃、酒ばっかり飲んで、不摂生のバチが当たってしまった」 井元は通算187勝した球界の大エースからの謝罪に恐縮しきりだったという。 1991年にドラフト外入団が廃止に。1993年には逆指名制度が導入されるなどしたが、07年に西武の裏金問題が発生し、完全撤廃。その間も、井元は教え子をプロの世界に送り出し続けた。 「高卒でプロに入ることを、私が積極的に薦めたことは一度もない。高校生が夢を持つのはいいが、早急にプロに行けば、結果を残せず、失望する結果になってしまうことだってある。大学、社会人を経ることも、決して遠回りではないわけです。PLでいえば、今岡(誠)がそう。高校時代に阪神から話があったが、私はまだ早いと思って東洋大を紹介した。すると1年生からチャンスを掴み、五輪にも出た。結果、逆指名の1位で阪神に入ったわけです」 今年は、春夏連覇を達成した大阪桐蔭の根尾昂が中日に、夏の決勝で大阪桐蔭に敗れた吉田輝星は日本ハムから指名を受けた。 吉田とも井元は浅からぬ因縁がある。井元が選手勧誘を担当する明桜と金足農業はライバルで、2年連続で秋田大会の決勝を戦った。 明桜の山口航輝は、井元が声をかけ、大阪から秋田に向かわせた教え子である。昨夏の決勝までは吉田を上回る評価の投手だったが、吉田の牽制で帰塁した時、右肩を脱臼し、この夏までに完全回復は叶わなかった。しかし、広角に力強い打球を放てる打力が評価され、ドラフト候補となっていた。 井元はドラフト前、山口にこう告げていた。「何球団から調査書が届いたとか、いろいろと一喜一憂しておったから、『指名はないと思っておいた方がいい』と伝えていたんだよ」 それは杞憂に終わり、山口は4位で千葉ロッテに指名された。体が続く限り野球に携わっていたいと常々話している井元。次にプロに送り出す選手は、誰になるのか。※週刊ポスト2018年11月9日号
2018.10.30 07:00
週刊ポスト

金足農・吉田輝星の進路をめぐる周囲の大人達の思惑
活躍の舞台を甲子園からU-18アジア選手権に移した金足農・吉田輝星(17)。プロ球団が熱視線を送る“怪物”の進路を巡り、周囲の大人たちの“思惑”が複雑に交錯している。 17歳の言葉が呼んだ波紋は、大きすぎるほどに広がってしまった。「吉田に対して、高野連(日本高校野球連盟)サイドから“厳重注意”があったようです。ドラフト制度では選手から球団を逆指名することはできないため、特定の球団名を挙げるのは“最大タブー”とされる。高野連は“特定の球団名は出さないように”と各都道府県の高野連を通して通達している」(高校野球担当記者) 問題となったのは、甲子園決勝の翌日、秋田凱旋時の報道陣への発言だった。──好きな球団は?「巨人です」──巨人に行きたい?「はい、行きたいです」 吉田は今春に八戸学院大学への進学が内定し、甲子園期間中も「いずれはプロに行きたい」と留保条件を付けてきただけに、より一層話題をさらったのだ。 巨人発言の裏には、準決勝で「レジェンド始球式」を務めた巨人OB・桑田真澄氏の存在が念頭にあったのではないかといわれている。吉田は桑田氏に尊敬の念を抱き、試合前には「(後攻を取って)桑田さんの横に並びたい」と話した。小学生時代に吉田が所属した「天王ヴィクトリーズ」の河村正悦監督が言う。「野球を覚える中で、目指す投球スタイルを考えた時、桑田投手が自分のイメージにマッチしたんでしょう。守備のフィールディングや配球の考え方を参考にしているのだろうと感じます」 17歳の素直な気持ち表明さえタブー視するのが、高校野球界の“空気”だ。◆輝星だけでなく雄星も泣かされた 吉田と八戸学院大野球部・正村公弘(やすひろ)監督を引き合わせたのは、34年前に金足農をベスト4に導いた元監督・嶋崎久美氏だった。昨秋の紹介以降、正村監督は往復8時間かけて、何十回と吉田の指導に足を運んだ。「吉田が準優勝投手になるまでに成長したのは、正村監督の指導が大きかった。吉田を紹介した嶋崎氏や金足農の中泉一豊・現監督は、正村監督への御恩を無下にできないため、進路変更してプロ志望届を提出するのは避けたいはずです。そうしたアマ指導者たちの繋がりは、時に“ムラ社会”の掟のように機能することもある」(前出・担当記者) 問題は、当事者以上に、両校の関係者たちが“進路を変えてもらっては困る”と思っていることだ。「金足農業は、これを機に八戸学院との進学ルートを築きたいし、八戸学院大は、スターが入学すれば大学としての知名度は桁外れに高くなる。1985年、早稲田大進学を表明していたPL学園の桑田氏がドラフト1位で巨人に入団して以来、PL出身選手の早大進学ルートは断たれた。もはや吉田の進学は、学校同士の問題にもなっている」(同前) さらに厄介なのは、秋田県高野連の事情までかかわってくることだ。「秋田では2015年に夏の甲子園ベスト8入りを果たした秋田商業のエース・成田翔(かける)が、社会人志望を表明しながら甲子園後にプロ志望に転向したことがあった(ドラフト3位でロッテに入団)。この時もすでに入団確実と見られていた地元の社会人チームに迷惑がかかった。事なかれ主義の秋田県高野連としては、県内で再びそのような突然の進路変更が起きては困ると心配しているようです」(同前) 周囲の大人が高校生の夢を翻意させてきた例もある。2009年に花巻東(岩手)から、プロ球団を経由せずにメジャーリーグへの挑戦を希望していた現西武・菊池雄星は、家族や学校関係者からの説得を受けてプロ志望届を提出。記者会見の終了後、菊池は目に涙を浮かべた。 西武は、ポスティング制度による今オフのメジャー挑戦を容認したが、菊池の希望が叶うまで、実に9年もの時間を要した。◆楽天からのラブコール 仮にプロ入りの意向を表明しても、逆指名制度がない現行ドラフトでは、吉田が巨人に入団できるとは限らない。そもそも、「長期的な戦力整備を考えれば、巨人は高卒なら内外野、投手なら即戦力を狙うだろう」(巨人番記者)とみられており、指名されるかも微妙。 一方で「地元・楽天での活躍が見たい」とのファンの声も多く、石井一久GMも「ぜひ東北でプレーして」とラブコールを送った。アマチュア球界の取材歴が長いスポーツジャーナリスト・谷口源太郎氏が語る。「吉田君が“巨人に行きたい”というのは素直な気持ち。なのに、高校生が夢を語って何が悪いのか。高野連は、こうした発言を許すと“高校野球がプロ予備軍を育てている”ようで都合が悪いのでしょう。そうしたアマ球界の体質を、一刻も早く改めるべきです」 10月25日のドラフト会議に向けて、プロ志望届を提出するか否かの決断に迫られる。吉田の夢が、周囲の大人の思惑やソロバン勘定で潰されることなどあってはならない。※週刊ポスト2018年9月14日号
2018.09.03 11:00
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金足農業・吉田輝星「ドラフトか進学か」重い決断と恩義
彗星のごとく甲子園に現われ、日本中の注目を一身に集めた金足農業・吉田輝星(こうせい)。プロスカウトの評価はうなぎ上りで、ドラフト1位での競合指名も有力視される彼には、既に約束した“進学先”があった。プロ志望届を提出するか否か──周囲の期待と思惑の中、17歳は重すぎる決断を迫られている。ノンフィクションライターの柳川悠二氏がレポートする(文中敬称略)。 * * * 大阪桐蔭の春夏連覇達成からおよそ3時間後──同校宿舎には、大勢の保護者やファンがナインの到着を待ち構えていた。 例年通りの光景ではある。ところが、明らかに様子が違う点があった。報道陣の数が極端に少ないのだ。一方、準優勝校である秋田・金足農業の宿舎は、用意された部屋が人であふれかえっていたという。 金足農業に13対2と圧勝し、史上初となる2度目の春夏連覇を達成した大阪桐蔭の偉業よりも、吉田輝星というたったひとりの球児の881球の熱投が、話題をさらったのである。 入場者数が過去最高となる100万人を超えた100回目の甲子園は、バックネット裏の光景も違っていた。いつも2回戦を終える頃には甲子園を後にするスカウトの姿が、いつまでもあった。根尾昂(あきら)や藤原恭大(きょうた)といった、ドラフト上位候補を揃える大阪桐蔭“最強世代”の視察目的もあるだろう。しかし、“平成最後の怪物”の存在が大きい。彼らは吉田が「プロ志望届」を提出することを心待ちにしている。東北のファンもまた、ご当地選手として東北楽天での活躍に期待を寄せる。 今後の関心は吉田の将来に移っていく。事態は本人だけでなく様々な大人の思惑が交錯する状況にある。 決勝から遡ること11日(8月10日)。1回戦の鹿児島実業戦を終え、1日の休息日を挟んだ金足農業の練習場は閑散としていた。 初戦で14三振を奪う快投を見せたとはいえ、当時は吉田狂騒曲のいわば“序曲”で、金足農業の決勝進出を予期できた者など、誰もいなかっただろう。練習を終えた吉田の周りにいたのも、私ひとりだった。「進路は(甲子園が)終わるまで考えません。もちろん、将来の夢はプロ野球選手になって活躍すること。メジャーリーガーになることは想像もつきませんが、日本を代表するピッチャーになりたい」 野球人生の次なる舞台について意気揚々と語った吉田は、進路に関しては煙に巻いたが、同じ日、金足農業監督の中泉一豊はこう明言した。「一部の方は既にご存じかと思うのですが、(吉田の進路は)大学が基本線です。八戸学院大学を予定しております。(同大野球部の)正村(公弘)監督にご指導いただいたからこそ、今の吉田がある。そのご恩を反故にするわけにはいきません」 八戸学院大は青森、岩手、秋田の3県の大学が加盟する北東北大学野球連盟の1部に所属。西武の秋山翔吾らを輩出する強豪私立である。吉田の才能を開花させた指揮官のもとに進学するのだと、中泉は言った。 しかし、甲子園でのブレイクによって吉田の状況が一変することを中泉は危惧していた。「周りからいろいろ言われますよね。それによって、本人の気持ちは揺れるかもしれない。それが怖い」 中泉の言う「いろいろ」とは、無論、プロへの誘いである。◆「悪い大人のちょっかい」 甲子園での吉田は、投手としての様々な“顔”を見せた。万全のコンディションでマウンドに上がった1、2回戦は、打者によって直球のギアを入れ替え、相手を力でねじ伏せる“剛”の投球術。 3回戦の横浜戦では、新たな引き出しを開け、それまで投げていなかったスプリットを多投。逆転した直後の9回表、この日の161球目には自己最速に並ぶ150キロのストレートを投げ込むタフネスぶりだった。 連投となった準々決勝・近江戦や、準決勝・日大三戦では、打たせて取る“柔”の省エネ投法で、アウトを重ねた。強打の日大三打線を7奪三振・1失点に抑えた吉田は、「今日の試合が理想のピッチングでした」と振り返った。 自身のコンディションや相手打者の能力によって、ギアを上げ下げするクレバーな投球術に加え、バント処理や牽制の巧さもまた、スカウトが「即戦力に近い逸材」と太鼓判を押したくなる理由だろう。 こうした状況に気を揉んでいるのが、八戸学院大監督の正村である。「大学進学なら絶対にうちだと思っていますが、100%進学が決まっているわけではないので、不安は残ります。私は信じるしかありません。今後、悪い大人がちょっかいを出すことだってあるでしょう(笑)。イケメンで、人気も期待できるでしょうから」 吉田というと、MAX150キロの直球に目を奪われがちだが、8つの変化球を投げ、とりわけ左打者の膝元に食い込む縦のスライダーは大きな武器である。 このスライダーを伝授した人物が正村だ。指導を始めたのは昨年9月20日、金足農業が秋季秋田大会の準々決勝で敗れ、今春の選抜への道が絶たれた直後。34年前の夏の甲子園でベスト4に進出し、PL学園に敗れた当時の監督・嶋崎久美から吉田を紹介された。「『良い選手がいるから獲った方が良い』と、嶋崎さんに薦められてね。確かにすげえ球を放っていた。ただ、素質を十分に活かした投球フォームには見えなかった」 以来、正村は八戸から金足まで往復8時間をかけ、何十回と通い詰めて指導にあたった。それほど、吉田の可能性に惚れ込んだということだろう。「スライダーが全然曲がらなかったんです。その頃のフォームは、アゴが上がり、上から叩きつけるような投げ方をしていた。そこで『頭のてっぺんから尾てい骨までを軸にして、回転させるように』と伝えました。最初はヒジが下がったように感じられ、違和感があったみたいです」 吉田はスマホで投球フォームを撮影してもらい、微修正を繰り返して正村の指導に沿ったフォームを体得していく。「ポテンシャルも体力もあって、野球小僧だからどんどんうまくなっていった」と正村は振り返る。 皮肉にも、金足農業の快進撃によって、関係者の困惑も増していく。1回戦を終えた段階では吉田の進学を明言していた中泉も、口を閉ざしていった。決勝後には、こう語るのみだった。「進路の話はしないように(学校関係者から)指導を受けているんです。今の段階では何も……」◆「ご恩は感じています」 決勝のピッチングをテレビで見届けた正村から、吉田への「よく頑張った、ご苦労さん」との伝言を頼まれていた。試合終了からしばらくして、吉田に伝えると、安堵するような表情を見せた。「やっぱり、正村監督の指導が僕には大きかったと思います。フォームに力が入らなくなったというか、力感のないフォームになった。スライダーは投げ方から教えていただいて、すごく曲がるようになった。ご恩はすごく感じています」 そして、こう続けた。「進路はまだ全く考えられないです」 甲子園取材では、敗れたチームにドラフト候補がいれば、「進路」について質問するのが常である。大学進学を既に決めている選手ははっきりそれを明言し、「進路に関してはこれから……」「親や監督と相談してから」と言葉を濁す選手は、プロ志望届の提出を決めているか、本当に迷っているかのどちらかである。 少なくとも、大会が開幕する17日前までは大学進学で固まっていた吉田の胸中に、迷いが生じていることだけは窺えた。秋田に帰った後、憧れの球団として巨人の名を挙げている。 今大会で「レジェンド始球式」のマウンドに上がったなかに、吉田が尊敬する人物がいた。34年前に金足農業と対戦したPL学園のエース・桑田真澄だ。 この桑田こそ、大人の思惑が交錯するドラフトによって翻弄されたひとりだろう。早稲田大への進学を公言していた桑田は、1985年ドラフトで巨人の単独1位指名を受けて入団。その結果、密約を疑われ、巨人への入団を切望していた清原和博とも、30年以上が経過しても禍根を残したままである。また、早大にはそれ以降、PL学園出身選手は1人も入部することができなかった。桑田はインタビューで当時をこう振り返っている。〈どこどこの球団が指名すると言ってるぞ、と言われても、『ありがたいですね』と言うだけで、誰に対しても心の中は見せませんでした。(中略)誰も信じなかった。親父のことでさえ、信じていませんでした〉(「Number」2017年10月26日号) 吉田は、桑田の始球式を、一塁側ベンチから見守っていた。現役時代と変わらぬ体型を維持し、伸びのある直球を捕手に投げ込んだ桑田の始球式から、吉田は何を感じ取っただろうか。 恩義か、それとも自身の夢を優先すべきか。どちらにせよ、吉田本人が下した決断が尊重されることを願いたい。※週刊ポスト2018年9月7日号
2018.08.27 16:00
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水飲めない時代経て… 最高齢82歳監督が語る高校野球の変化
100回を迎えた夏の甲子園を、特別な感慨をもって迎えた「老将」がいる。豊田義夫、82歳。今大会に参加した全国3939校で最高齢の監督だ。かつて激戦区・大阪で名門・近大附属を率いてPL学園や浪商(現・大体大浪商)と甲子園を争った“高校野球の生き字引”が、60年以上に及ぶ指導者人生にピリオドを打った今夏、時代とともに変わりゆく高校野球界への思いをジャーナリスト・鵜飼克郎氏が取材した(文中敬称略)。 * * * 56校が入場行進した8月5日の開会式。大会の全試合を放送する朝日放送(ABCラジオ)のブースに、ゲストとして招かれた豊田の姿があった。「聖地に来られなかった球児の分も行進してほしい」 グラウンドをじっと見つめ、声を詰まらせながら語る豊田。口にはしなかったが、“僕の分も……”と言いたかったのかもしれない。 豊田が高校野球の指導者となったのは1956年。会社員を経て母校・近大附属のコーチとなり、1965年に監督就任。3度センバツ出場に導き、激戦区の大阪で近大附属を「私学7強」の一角に押し上げた。 1984年の退任後も系列校で監督を歴任した豊田が「最後のユニフォーム」を纏ったのは、大阪から遠く離れた群馬・利根商業。就任3年目となる今夏、県予選2回戦で敗退し、同校の監督を勇退した。60年以上の監督人生で、夏の甲子園出場を果たすことは、ついに叶わなかった。「甲子園での勝利数の日本一もいますが、僕は“ノックなら日本一の監督”と思ってやってきた。でも、昨年あたりから足腰がふらついてノックバットが振れなくなった。外野まで飛ばせなくなったら選手に申し訳ないのでユニフォームを脱ぐ決断をしました。 僕がノックを大切にしてきたのは、ノックは選手と監督の一番大事なコミュニケーションだと思うからです。守っている選手のグラブが届くか届かないか、ギリギリのスピードとコースに打つ。グラブをかすめながら、ボールが後ろに転がっていく。そうすることで守備範囲が少しずつ広がり、“飛び込んででも捕る”という精神が鍛えられると思うんです」 豊田に「高校野球の時代の変化」を尋ねると、静かに語り始めた。◆エースでもベンチから外した 近大附属時代の豊田は、試合中に気を抜いた選手をベンチ前に正座させ、練習では5時間ぶっ続けのボール回しをさせるなど“超スパルタ指導”で知られ、「キンコーの鬼」と呼ばれた。「昔は練習中に1滴の水も飲ませなかった。よくもあんな無茶をしたと、背筋が寒くなります。近大附属のコーチ時代、大阪の頂点にいた浪商さんは猛練習で知られ、水なんて飲ませない。でも、塩は舐めさせていた。浪商さんに勝つにはもっとキツい練習をしなければならないと思って、ウチは塩もダメにした。選手には迷惑な話です。 そんな間違った指導が当たり前だった時代を考えれば、大きく環境は変わった。利根商の練習を手伝いに来てくれた近大附属の卒業生からは、『僕らにも水を飲ませてくれていたら、大阪で毎回優勝できた』と文句を言われましたよ(苦笑)。 昔ながらの指導法には間違いもたくさんありましたが、変わらないでほしいのは『高校野球は教育の一環である』ということです。 格好つけているように聞こえるかもしれませんが、子供たちには常々『社会人として信頼され、尊敬されることが大事。野球バカになってはいけない』と言ってきました。近大附属の監督時代には、補欠の選手を見下すような態度をとった1年生エースをベンチから外したこともあります。その夏の予選は、決勝で負けました。彼を使えば甲子園に行けたかもしれないけれど、チームが成長するためには外すしかなかった。 彼は腐らず3年間野球を続けました。卒業してから何年か経って子供が生まれたと、彼が僕を訪ねてきてくれた時は本当に嬉しかったですね」◆「選手を集めるだけ」の監督 全国から有望な中学生を集めた強豪私学の隆盛も、近年の高校野球界の変化だ。その潮流にも、豊田は警鐘を鳴らす。「残念ながら、いまの高校野球は『野球が上手ならそれでいい』という雰囲気が強くなっているようにも感じます。指導者、学校、選手、親御さんにもです。 そりゃ、いい選手を集めれば監督は左団扇ですよ。僕も昔は有望な中学生がいると聞けば、出掛けていった。桑田(真澄)君の家にも日参しましたが、門前払いでしたね。 いまは昔と違い、監督の熱意だけで来てくれるケースは少ない。昔は“面白そうだから行こう”とか、“監督が恐そうだからやめよう”と、単純な考え方で高校を決める子が多かったが、最近はレギュラーになれるか、OBの進学先など、親子でよ~く調べている。学校側が“アメ”を用意しないと入部してくれません。でも、やっぱり『集める』だけではなく、『育てる』ことを忘れてはいけない。 いま圧倒的な強さを誇っている大阪桐蔭は、西谷(浩一)監督が熱心に選手集めをしています。でも、彼が偉いのは、早朝練習でも直接指導をしていること。最近は“選手にやらせるだけ”の監督が増えましたが、彼は違うようです。だからあれだけ強いチームを作れるんでしょうね。 仕方ないことかもしれませんが、才能ある中学生を集めるチーム作りだと、選手のやりたいようにやらせる野球になりやすい。とにかく“フルスイングして打ち勝つ”というチームが増えた。バントや盗塁、エンドランとか、局面ごとに選手たちが考えながらやるのが教育の一環であり、負けたら終わりの高校野球の在り方だと思うんですけどね」 人生の4分の3を高校野球に捧げた豊田は現在、自宅のある奈良県で孫たちと過ごす。「監督時代は四六時中野球のことばかり考えていました。監督として夏の甲子園には出られなかったけど、82歳まで好きなことをやれて、本当に幸せ者でした」 傘寿を超えても愛車のハンドルを握る。後部座席には、使い古されたノックバットが置かれていた。「これが近くにないと、どうも落ち着かなくてね」 ノックを通じた教育に心血を注いできた“根っからの高校野球人”は、来年から「元監督」として、球児と指導者たちにエールを送り続ける。●取材・文/鵜飼克郎(ジャーナリスト)※週刊ポスト2018年8月31日号
2018.08.22 07:00
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レジェンド始球式 江川、荒木、清原らが呼ばれなかった理由
大会初日の松井秀喜氏を皮切りに、甲子園OBが連日「レジェンド始球式」に登場し、100回の記念大会に花を添えている。最高齢・85歳の中西太氏(高松一)、大会通算83奪三振などの記録を誇る板東英二氏(徳島商)、“元祖甲子園アイドル”太田幸司氏(三沢)ら錚々たる顔ぶれだ。主催社・朝日新聞によれば、選考基準は「夏の甲子園での活躍」「高校野球ファンの記憶に残る選手」などだという。 しかし、高校野球ファンであればこそ、「なぜあの選手がいないの?」という疑問も湧いてくる。 1973年夏に「怪物」の名をほしいままにした作新学院の江川卓氏や神奈川大会では始球式の打席に立った原辰徳氏(東海大相模)も入っていない。いったいなぜ?「様々な方にお声をかけたなかでスケジュールの都合などの事情はありました。個々の方の経緯についてはお答えを差し控えます」(朝日新聞大阪本社広報担当) 1年生エースとして大ちゃんフィーバーを巻き起こした現・日ハム二軍監督の荒木大輔氏(早稲田実業)が出ていない理由については次の回答だった。「現役のプロ野球選手や監督、コーチなどは対象としませんでした」(同前) 他にも、甲子園通算13本塁打の清原和博氏(PL学園)、荒木に投げ勝って優勝した愛甲猛氏(横浜)が入っていない。現役引退後の“お騒がせ”を鑑みると、甲子園の地に再び立つことは難しいのかもしれない。 100回の歴史を振り返るなかで、姿がないのは寂しいレジェンドもいるが、呼ぶ側にも呼ばれる側にも“事情”があるようだ。※週刊ポスト2018年8月31日号
2018.08.21 07:00
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高校球界から「PL」が完全に消える日──現校長が独白
夏の甲子園の100回記念大会は、いよいよ佳境を迎えている。大会前から“大本命”と目されたのが史上初となる2度目の春夏連覇を目指す大阪桐蔭だったが、100回の歴史のなかで“大阪の覇者”として君臨したのはPL学園だった。春と夏の甲子園にあわせて37回出場し、歴代3位となる通算96勝を記録。卒業後にプロに進んだOBも、桑田真澄、清原和博、立浪和義、宮本慎也、福留孝介、今江敏晃、前田健太ら総勢81人を数え、球史に名を残す大投手、大打者も多い。そのPL学園が活動休止に追い込まれてから、2年が経とうとしているが、復活を願う声は根強くある。そんななか、『永遠のPL学園 六〇年目のゲームセット』著者の柳川悠二氏(ノンフィクションライター)が、最新動向をキャッチした。 * * * 8月13日の甲子園球場には、春夏通算7度の全国制覇を誇ったPL学園の応援ソング「ウィニング」が流れた。無論、演奏したのはPL学園ではない。長野・佐久長聖の藤原弘介監督が元PLの監督だった縁で、1980年代から1990年代にかけて甲子園を荘厳な雰囲気に包み込んだあの名曲を、佐久長聖のブラスバンドがチャンス時に流しているのだ。 100回目の記念大会を迎えた夏の甲子園。その開幕前日にも、「ウィニング」を耳にする機会があった。場所は甲子園ではなく、人もまばらな住之江公園野球場(大阪市住之江区)。そこでは全国高等学校“軟式”野球選手権の大阪大会決勝が開催されていた。 PL学園の硬式野球部は一昨年7月に活動を休止し、事実上の廃部となったが、同じユニフォームを着用する「PL学園軟式野球部」は今も活動を続けている。昨夏に11度目の大阪王者になり、さらに昨年の秋季大会、今年の春季大会と大阪で負けなし。この夏も大本命の優勝候補として臨み、投手陣がノーヒットノーランや完全試合を達成するなど、万全の状態で勝ち上がってきていた。 しかし、決勝の河南高校戦では、守備の乱れによって失点を重ね、打線も相手エースから1点も奪えず、0対5で敗れてしまう。斉藤大仁監督が振り返る。「相手に傾いた流れを打破できず、一方的な展開になってしまった……。ここまでミスなく勝ち上がってきたので、ショックです」 軟式球で遠投110メートルという驚異の鉄砲肩を持つ主将で捕手の相曽轄也(あいそ・かつや)は、もともとPL学園中学時代は硬式野球部への入部を夢見ていた。しかし、2014年秋の新入部員募集停止によって、硬式野球で甲子園を目指すことを断念し、高校進学後も軟式野球部に所属してきた。 攻守のキーマンである相曽は、3回に自身の2塁への送球エラーで2点を相手に与え、打撃では3打数無安打。ひとりで敗戦の責任を感じていた。「あくまで全国制覇が目標で、全国大会には出場しないといけないと思っていた。正直、悔しいです。試合中にミスしてしまったんですが、自分が落ち込むことによってチームのムードが下がるので、気にしないようにしていたんです。でも、試合が終了して、今、後悔が……」 PL学園の軟式野球部はベンチ入り可能な18人より少ない16人の選手しか登録されていなかった。しかも、そのうち8人が3年生だ。現状のままでは、試合が可能な9人に満たない部員数で新チームがスタートすることとなる。 試合後、斉藤監督は選手と保護者を集めて、衝撃の事実を発表した。「新チームは人数が8名しかおりません。結論としては、秋の大会は辞退します」◆硬式野球部に続き軟式野球部までも… 改めて、チームの置かれた状況を斉藤監督が明かしてくれた。「たとえ公式戦に出られないとしても、部員を貸してもらって練習試合は組めるし、野球はできるわけやから、部は存続します。ただ(部員の少ない他校との)連合チームは考えておりません。今後、他の部活動と兼部する生徒がひとり、加わる予定もありますが、9人という試合出場にギリギリの状態では、何かあった時に他の学校さんにご迷惑をおかけしてしまう。それなら腹をくくって、秋は辞退しようと2人の2年生部員が判断しました」 私は2014年夏から2年半に渡ってPL学園の硬式野球部を取材し、その栄光の歴史と廃部にいたった経緯を昨年3月、『永遠のPL学園 六〇年目のゲームセット』(小学館刊)として発表した。 かつて絶大な人気を誇った名門校がなぜ廃部に追い込まれたのか。その第一の理由は、度重なる暴力事件(不祥事)の発覚であり、いっこうに改善のみられない部の悪しき体質に対し、学園の母体であるパーフェクトリバティー(PL)教団がいよいよ愛想を尽かしたというのが背景にある。だが、それ以上に教団の信者が激減し、2世・3世が通うPL学園の学園生徒数が1学年50人から60人程度と、学園自体が存続の危機にあることが、硬式野球部を廃部へと向かわせた。 廃部となった後もPL教団およびPL学園の取材を続けてきた私は、この夏、軟式野球部までもが廃部の危機に立たされている惨状を目の当たりにしたわけである。 住之江公園野球場の応援席に、PL学園の関係者は保護者をのぞいてわずかだったが、その中に私がずっと会いたかった人物がいた。現校長の正井啓介氏である。 PL学園の硬式野球部は2013年春に暴力事件が発覚し、6か月もの対外試合禁止となった。その処分が解けた際、硬式野球部の監督に就任したのは野球経験のない当時の校長である正井一真氏だった。彼の実兄が正井啓介氏である。 学園一筋に奉職してきた弟とは異なり、啓介氏は長く、PL教団の東京の布教拠点である東京中央教会の教会長を務めた人物であり、学園の校長を務めながら、現在も教団幹部のひとりでもある。 教団幹部と接触できるような好機は滅多にない。自己紹介を終えた私は、秋季大会の辞退を決定した軟式野球部についての質問からぶつけた。「軟式野球部の今後に関してはこれから話し合う予定です。生徒数が減少して、経営が苦しいのは、どこの学校も同じではないでしょうか。うちは、受験戦争に勝っていない。ほとんどの学生が大学に進学しますが、より良い大学(難関大)への進学率の低さが、生徒数(の少なさ)に跳ね返ってきていますね」 PL学園は宗教法人が母体となる学校だ。硬式野球部なき今、生徒のほぼ100%が信者の2世・3世となる。信者が激減しているのだから、その数は減少していく一方だろう。「そうですね……。信者のお子さんでも、進学のことを考え、PL学園ではなくお住まいの地元の高校に行く方が多いです」◆幹部から発せられた絶望的な言葉 硬式野球部が活動を停止して2年が経過したが、いまだに「復活」を願っている高校野球ファンは少なくない。復活の可能性はあるのだろうか。「私は硬式野球部が創部される以前から学園におります。硬式野球部のプロセスを見ていくと、いつしか学園生活の中で、野球だけ(の生活)になってしまった。つまり(『PLの野球は世界平和に通ず』という2代教祖の)教えから遠ざかってしまった。硬式野球部の復活はない。ないでしょう」 復活はない──硬式野球部の廃部を一方的に決めたのは3代教主・御木貴日止やその妻たちである。彼らを支える教団幹部が、復活の可能性すら否定するようなことは、これまで一度もなかったことだ。 しかし、硬式野球部のOB会は、元プロ野球選手を含め1000名に達した野球部OBから、存続に向けた嘆願書を集め、校長宛に提出してきた。この嘆願書は、決定権を持つ3代教主らに届いているのだろうか。「いえ、お渡ししておりません。私だけの判断で物事は決められませんが、総合的に(渡す必要がないと)判断しております」 復活を願う高校野球ファンや、復活に向けた活動を行ってきたOB会からしたら、絶望的な気分に陥る教団幹部の発言だろう。 硬式野球部の復活の芽は完全に絶たれ、そして軟式野球部まで消滅の危機にある。いずれPL野球の名残は跡形もなく消え、そして人々の心から忘れ去られてしまうのだろうか。 この夏の甲子園の大会9日目の第2試合に登場した佐久長聖は、高岡商(富山)に4対5と惜敗した。またしばらく、甲子園で「ウィニング」は聞けそうにない。
2018.08.18 07:00
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絶対王者・大阪桐蔭 「年下監督」に苦手意識あり
記念すべき100回大会を迎えた夏の甲子園に、いよいよ主役となる大阪桐蔭が登場し、2年前に全国制覇した作新学院と相対する。この度、『4千分の1の名将 新・高校野球学[関西編] 』(大和書房)を上梓した高校・大学球児向けフリーマガジン「サムライベースボール」の発行人である古内義明氏が、史上2校目の春夏連覇を狙う大阪桐蔭の死角に迫った。 * * * 8月2日に行われた組み合わせ抽選会。大阪桐蔭の中川卓也主将がクジを引いてから、しばらくの間、対戦相手が決まらなかった。終盤、ようやく決まった対戦相手は、2年前の優勝校であり、夏の栃木予選8連覇中の作新学院だった。同校の磯一輝主将は「(大阪桐蔭の隣)5番が空いてると思っていた。初戦で大阪桐蔭と当たるのも何かの縁。挑戦者のつもりで自分たちの野球をやりたい」と抱負を述べていた。「小針監督は特に凄いと思っています。自分が33歳の時なんて甲子園にも出られずに、もがいて、もがいていた時期でしたので、小針監督はもう堂々と甲子園で采配されています」 大阪桐蔭の西谷監督は、対戦相手となった作新学院の小針監督をそう評し、若手の代表格と位置付けていた。 高校球界を見渡せば、帝京の前田三夫監督、智弁和歌山の高嶋仁監督、大垣日大の阪口慶三監督の大ベテラン監督がいて、それから日大三高の小倉全由監督や平安の原田英彦監督などが続き、西谷監督の昭和44年生まれの49歳世代は、東海大相模の門馬敬治監督や花咲徳栄の岩井隆監督と、全国制覇を達成した名将を輩出する黄金世代と言える。その世代からすると、33歳の小針監督を筆頭に、関東一高の米沢貴光監督(42歳)や敦賀気比の東哲平監督(37歳)などは、次世代監督と言えるのだろう。 以前、西谷監督が選抜優勝を振り返る際にこんな話をしていた。「選抜準決勝の三重高校戦は、2014年の夏の甲子園決勝もそうでしたが、簡単にはいかないだろうなと。大会最年少の小島紳監督(28歳)は正直やりにくかったです。前任の中村好治監督(64歳・現総監督)のいいところも受け継いでいて、そこにまた何か武器を持っていて、その上にちょっと大胆さがあり、何か怖い者知らずというか、『ええ!そこで!』と思うような場面が準決勝でもいくつもありました。試合をするのが本当はイヤでしたが、そんなことは選手にも誰にも言えませんでした」 弱音を見せない西谷監督が、口にした衝撃的な告白だった。 打倒・PL学園を掲げて大阪大会に挑んできた西谷監督にとって、PL学園の中村順司監督を始め、元常総学院の木内幸男監督や元横浜の渡辺元智監督は挑むべき大監督であり、そこに立ち向かう日々だっただけに、「甲子園に出たら、若手というイメージがずっとあった」という。年上監督とやる方が、「よーし!」と自然にスイッチが入ってきたのだろう。 だからこそ、「若い監督さんのほうが組みにくいというのは正直あります。若い監督の場合、いろいろな展開を想定しなくてはいけません。先にポンポーンと自分たちが離して、楽にいくようなゲームはなかなかありません」と、年下監督への苦手意識を吐露する。 怖いもの知らずの若手監督のチャレンジ精神は、過去の自分と重なり合う部分があり、無意識のうちに受け身になってしまうのかもしれない。 2年前の全国制覇について、小針監督は、「本当に負ける怖さがなくなり、堂々とやるだけという姿勢でした。その分日本一を求めて、練習はしていたと思います」と、野球に向き合う姿勢こそ、日本一の絶対条件だと言及していた。今回の大阪桐蔭戦も、攻撃的な姿勢で挑んでくるだろう。 これまで胸を借りるという姿勢で、春夏通算6度の全国制覇を成し遂げた来た西谷監督だが、100回記念大会の初陣で、年の差16歳の小針監督率いる作新学院を破り、深紅の大優勝旗に一歩近づくことができるのか。両軍のベンチの采配からも目が離せない。
2018.08.06 07:00
NEWSポストセブン

高校野球古豪・大船渡 火の玉野球旋風の再現を大谷2世に託す
1984年春のセンバツで旋風を起こし、ベスト4に進出した岩手・大船渡。今夏、長く低迷していた同校が注目を集めたのは、岩手が生んだ二刀流・大谷翔平(エンゼルス)を彷彿とさせる怪物投手の登場に尽きる。 2年生の189センチ右腕・佐々木朗希(ろうき)は県大会初戦に先発し、自己最速となる154キロをマークした(11奪三振、完投)。 大船渡旋風時の主力・木下清吾は母校復活に期待を寄せる。「港町に人があふれかえった当時の再現を期待したい。佐々木君がいる今年、来年は甲子園を本気で狙えるチャンスです」 大船渡は2戦目で佐々木の登板がないまま敗戦したが、この夢物語は来春、来夏に続く。(文中敬称略)●取材・文/柳川悠二(ノンフィクションライター、『永遠のPL学園』著者)※週刊ポスト2018年8月10日号
2018.08.05 07:00
週刊ポスト

古豪・県立上尾高校 埼玉野球の父が去り遠くなった甲子園
「埼玉野球の父」と呼ばれた男がいる。県立上尾高校の監督として、春夏6回の出場を果たした野本喜一郎だ。1975年夏の甲子園では、原貢監督と辰徳の親子鷹で注目を集めた東海大相模を下し、ベスト4に進出した。 しかし、野本は1984年4月に上尾の監督を退任し、創立間もない浦和学院の監督に転身。上尾は同年夏こそ選手権大会に出場したものの、その後は一度も聖地を踏んでいない。 野本就任の2年後、浦和学院は埼玉を制し、甲子園初出場を決めた。だがベンチに指揮官の姿はなかった。夏を前に体調が悪化し、1986年8月8日、野本は上尾市内の病院で死去(死因はすい臓出血、享年64)。くしくも甲子園の開会式が行われた日だった。当時、浦和学院の2年生だった鈴木健(元西武ほか)が振り返る。「体罰が当たり前にあった時代に珍しく、野本さんの指導は優しかった。僕は怒られたことがない。野本さんは元プロ野球選手(西鉄ライオンズほか)ですから、効率を考えた練習メニューで、指導も理論的だった」 今夏、上尾は北埼玉大会決勝に駒を進めるも花咲徳栄に敗れ、34年ぶりの甲子園出場は叶わなかった。一方、浦和学院は圧倒的な打力で南埼玉大会を制し5年ぶりの出場。明暗を分ける結果となった。(文中敬称略)●取材・文/柳川悠二(ノンフィクションライター、『永遠のPL学園』著者)※週刊ポスト2018年8月10日号
2018.08.04 07:00
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