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【PL学園】に関するニュースを集めたページです。

大阪桐蔭野球部 PLとの差を埋めた「付き人制度の廃止」
大阪桐蔭野球部 PLとの差を埋めた「付き人制度の廃止」
 春夏連覇を狙うセンバツ覇者の大阪桐蔭と、昨夏で休部に追い込まれた超名門のPL学園──多くの高校野球ファンに鮮烈な印象を残す2校。もし夏の甲子園で大阪桐蔭が春夏連覇を果たせば、優勝回数はPLに並ぶ。2校の「縁」を『永遠のPL学園』著者・柳川悠二氏(ノンフィクションライター)が追った。 * * * 元中日の今中慎二は、1986年に大阪桐蔭の前身である大阪産業大学高校大東校舎に4期生として入学した。当時の監督は、1978年にPL学園が初めて全国制覇を達成した時の監督である山本泰(旧姓・鶴岡)。プロ野球の史上最多勝監督である“ドン”鶴岡一人の長男である山本は1980年にPLの監督を退いていた。「開校したばかりの大東校舎は、監督に山本さんを置き、PLの野球そのものを引き継いでいました。サインが攻守で100種類以上あって、練習の内容もとにかく細かい。(1年生が上級生の身の回りを世話する)付き人制度もありました。中学までただ楽しく野球をやっていた自分には、別次元の野球でした」 甲子園で活躍して校名を売る。そういうPLの前例に倣いたかったのだろうか。しかし、大東校舎にとって、PLは遥か彼方の存在だった。今中が入学するまで、大東校舎はPLに対し公式戦で9連敗していたという。 1年夏からベンチ入りし、その秋にはエース格に成長した今中は、同年の秋季大阪大会準々決勝PL戦に先発する。PLの1学年上に、後に中日ドラゴンズでチームメイトとなる立浪和義がいた。片岡篤史(元阪神)、野村弘樹(元横浜)らとともに翌1987年に春夏連覇を達成するPL最強世代である。 今中は5回に1失点したものの、強力打線を最少失点に抑え込む。だが、味方が初回の1安打だけに封じられ、0対1で惜敗した。「あの試合でもし勝っていたら、PLの春夏連覇はなかった(笑)。この試合をスカウトが見てくれていて、無名の自分がプロに行けた。その点では、大きな意味のある試合でした」 今中が3年生だった1988年に大東校舎は分離独立して大阪桐蔭となった。1991年夏には選手権大会に初出場、初優勝を飾る(監督は長沢和雄)。しかし、PLに勝てない時代は続いた。1993年にコーチに就任した西谷は、「どうやったらPLに勝てるか。そればかりを考えていました」と振り返る。 全国から有望選手が集まるPLと比べれば、入学する選手のレベルからして差があった。それを埋めるべく、西谷は付き人制度を廃止。PLの1年生が先輩の世話に忙しい間に、大阪桐蔭の1年生には早朝から遅い時間まで猛練習を課した。「大阪の野球=PLの野球でした。あと一歩のところまで追い詰めても、勝てなかった。やればやるほど、PLの強さを身にしみて感じるようになりました」 2000年代に入ってPL学園は度重なる暴力事件の発覚や、母体教団の意向で、力を失っていく。一方、大阪桐蔭は2008年夏に2度目の全国制覇を果たし、猛烈な勢いで台頭していった。1987年から部に携わってきた部長の有友茂史は言う。「(2005年に)セ・パ交流戦が始まったことが転機でした。パ・リーグの選手に注目が集まるようになり、卒業生の西武・中村剛也が“おかわりくん”と呼ばれ、当時、千葉ロッテにいた西岡剛(現阪神)も活躍した。それで大阪桐蔭の名前を知ってもらえましたし、うちで野球をやりたいと言ってくれる選手が増えました」(文中敬称略)※週刊ポスト2017年7月21・28日号
2017.07.11 16:00
週刊ポスト
【書評】史上最強の高校野球部はなぜ廃部に追い込まれたのか
【書評】史上最強の高校野球部はなぜ廃部に追い込まれたのか
【書評】『永遠のPL学園 六〇年目のゲームセット』/柳川悠二/著/小学館/本体1500円+税【著者プロフィール】柳川悠二(やながわ・ゆうじ):1976年宮崎県生まれ。ノンフィクションライター。法政大学在学中からスポーツ取材を開始し、出版社勤務を経て独立。本作で第23回小学館ノンフィクション大賞受賞。他の著書に『最弱ナイン』(角川書店)など。【評者】鈴木洋史(ノンフィクションライター) 史上最強の高校野球部に一体何があったのか? 去る3月29日、高校野球春の選抜大会の最中、PL学園高校野球部が大阪府高校野球連盟に提出していた脱退届が受理された。野球部は2015年度から部員募集を停止し、3年生だけで臨んだ2016年夏の府大会に負けた時点で事実上の廃部状態にあった。春夏合わせて甲子園96勝、優勝7度を誇り、プロ入りした選手81人。本書は、そんな名門が廃部に追い込まれた謎を解くノンフィクションだ。 本書は、あまり語られたことのない創部の経緯から明らかにしていく。これが興味深い。PL教団の二代教祖御木徳近(事実上の初代)が教団を興したのは1946年。その数年後、教団も加盟する新日本宗教団体連合会で軟式野球対抗試合が開かれていた。 野球好きだった徳近は当時の強豪立正佼成会に勝つべく教団内で野球を奨励し、後には硬式野球部を作り、都市対抗に出場した。ちなみに当時は産業別対抗で、PLの出場枠は百貨店部門だった。そうした経緯があり、1955年の学園創立とともに野球部も創部された。早くも1960年代前半から強豪校にのし上がり、やがて桑田真澄、清原和博らが活躍する1980年代の黄金期を迎える。 だが、すでにその最中、崩壊の芽は育っていた。〈PL教団の広告塔として、信者の拡大に大きく貢献した野球部だが、甲子園制覇を繰り返し、絶大な人気を誇るようになるにつれ(中略)教団という組織の中で、野球部だけが独立して力を持つようになった〉。教団は多額の予算を野球部に注ぎ、野球部員は一般学生とは別の特別な寮に住んだ。 野球部が教祖の保護下にあるうちはよかったが、1983年に徳近が鬼籍に入ると、次第に教団内で野球部に対する視線が厳しくなっていく。そして、2000年代に入って部内暴力事件が多発し、対外試合禁止処分を受け、監督が辞任する事態が繰り返されるようになった。かつての「広告塔」は教団内で〈いつしか“お荷物”という認識に変わった〉。支援は減っていった。 その背景には教団自体の衰退という事情もあった。最盛期に公称265万人とされた信者数は、現在公称90万人で、実数で数万人ではないかと見られている。また、具体的な内容は本書に譲るが、著者は教祖一族の取材に成功し、教団上層部における力関係の変化が野球部の扱いに暗い影を落としていることもスクープしている。 そうした経緯を経て、2013年の秋以降は、野球経験のない“素人”監督が部を率いた。最後の代となった2014年入学の部員はわずか12人で、怪我人が出ればチームを組むのもぎりぎりの人数だ。特待生は一人もおらず、体も強豪校の選手より明らかにひと回り小さい。全盛期には逆にPLの選手の体格が相手を威嚇していたことを思うと、この落差は実に切ない。 本書のクライマックスは、そんな選手たちが挑む、夏の甲子園に向けた府大会の試合である。チームはその試合で公式戦初勝利を目指す。だが、〈逆転のPL〉ならぬ〈逆転されるPL〉として試合は終わってしまう。そのあとである。どんな試合のラストよりも感動的なシーンが現れるのは。それにはファンならずとも涙をそそられる。 著者の取材は丁寧で、抑制された文章の行間からは取材の過程で著者がチームに抱いた愛情がにじみ出る。名門の廃部というショッキングな出来事を扱いながら、読後感はどこか清々しい。※SAPIO2017年6月号
2017.05.12 16:00
SAPIO
PL学園硬式野球部の高野連脱退 1期生含むOBたちの思い
PL学園硬式野球部の高野連脱退 1期生含むOBたちの思い
 数々の名選手を生んだPL学園野球部がついにその歴史に幕を下ろした。センバツ甲子園の最中に報じられた「高野連脱退」のニュースを関係者はどう聞いたか。『永遠のPL学園 六〇年目のゲームセット』の著者であるノンフィクションライター・柳川悠二氏がレポートする。 * * * 大阪府高等学校野球連盟が、PL学園から提出されていた「高野連脱退届」の受理を発表したのは、3月29日だった。その日、甲子園でセンバツ準々決勝を取材していた私は、すぐに学園1期生の井元俊秀に連絡を入れた。「ホント? 知らんかった。エー、ホントなの?」 80歳になる井元は、何度もそれが事実かを確認した。井元は硬式野球部を創った人物であり、同校が1962年春に初めて甲子園に出場した時の監督である。KKコンビ(桑田真澄、清原和博)らが活躍した1980年代の黄金期にはスカウトとして活躍。井元からすれば、我が子を失ったも同然だろう。「昨年7月以来、休部となっていたわけだから、ある程度は予測できたこと。ショックは少ない……いや、やっぱり寂しいなあ」 PL学園は新宗教団体・パーフェクトリバティー教団を母体として、1955年に創立された。教団の2代教祖・御木徳近は建学と同時に野球部を創部し、甲子園のアルプス席に「PL」の人文字を描いて教団名をアピールしようとした。 そんな徳近の命を受けて、2002年の退任まで野球部を陰で支えたのが井元だった。「野球を心から愛した2代教祖は、このニュースを聞いて、どう思っているんかな。私学がどこも学校経営に苦しんでいる時代ですから、『これも仕方ない』と言っているかもしれないし、『何を考えておるんじゃ。バカモン!』と怒っているかもしれない。とにかく、素晴らしい野球部だった」 廃部の発端は、度重なる不祥事である。2013年2月に部内の暴力事件で高野連から6カ月の対外試合禁止処分が下ると、当時の河野有道監督は引責辞任。監督の人事権を持つ教団は野球経験者を据えることなく放置した。2014年10月には新入部員の募集を停止。そして昨年7月、後輩のいない12人の部員が大阪大会初戦で敗れ、活動休止となった。◆神聖なグラウンドは今…… 1983年に265万人だった教団の公称信者数は約90万人にまで減少。実数はもっと少ないだろう。信者の激減とともに、学園の生徒数も減った。学園OBである教団関係者はこう話す。「学園中学の今年の入学生は約30人で1クラスしかない。高校は外部からの入学もありますが、それでも一学年50人程度です」 硬式野球部がなくなり、教団一等地に広がる硬式専用グラウンドを軟式野球部が使うこともあるという。ある硬式OBは戸惑いを隠せない。「あのグラウンドは2代教祖様が築き、先輩方が汗水流した神聖な場所。廃部となったからといって、すぐに軟式が使うのは、自分たちの青春が踏みにじられているような気がしてなりません。もちろん、取り壊されるよりはましですが」 PL学園が脱退届を提出するにあたって、野球部のOB会には事前に相談も報告もなかった。学園内でも突然、職員室でこの事実が発表されたという。前出の教団関係者は言う。「硬式野球部を再開したあかつきには、すぐに再加盟すると説明したようです」 しかし、再加盟には厳しい道のりが待つはずだ。野球部は学園創立と同時に創部されたが、高野連に加盟が認められたのは1年後だった。井元が振り返る。「当時は学園の生徒数も少なく、練習環境の整備もできていなかった。それゆえ『時期尚早だ』と判断され、加盟を見送られたのです」 生徒数が激減した学校の再加盟申請がそう簡単に認められるとも思えない。◆最後の主将の“夢” 今年のセンバツ決勝は、PLに代わり全国屈指の激戦区・大阪で2強を成す大阪桐蔭と履正社によって争われた。その数日後、私はPLの最後の主将を務めた62期生の梅田翔大に会うため、福岡に向かった。彼は脱退届提出に呆れていた。「今は自分のことで精一杯で、PL野球部のことを考える余裕がない。ただ、大阪同士の対決でせっかくセンバツが盛り上がっているのに、水を差すようなことはやめてほしかったです」 進学先の日本経済大学の野球部は、PLの大先輩で、埼玉西武などのコーチを歴任した行澤久隆が監督を務め、松坂大輔を擁した横浜高校と延長17回を戦った時の1番バッター・田中一徳(元横浜)がコーチだ。縁もゆかりもない土地でも、PLの血脈は流れていた。「久しぶりに大人数の練習ができています。ただ、大所帯だと自分の練習時間が少なくなってしまう。他の選手は全体練習が終わると寮に戻りますが、自分はPLで習慣づいていた自主練習をやります。将来は自分を育ててくれた大阪で高校野球の指導者になりたい」 PL学園の野球部を創った男は廃部にショックを隠せず、最後の主将は怒りに近い感情を抱きつつ、将来の夢を語った。姿形はなくなっても、PL野球の誇りと伝統は失われていない。※週刊ポスト2017年4月21日号
2017.04.11 11:00
週刊ポスト
今年は「夏のセンバツ」に
大阪桐蔭「史上最強の2年生」はドラ1候補が4人!?
 誰が呼んだか、「多刀流」。実に言い得て妙だ。第89回選抜高校野球大会に出場した大阪桐蔭の2年生、根尾昂(ねお・あきら)のことである。 背番号「7」の根尾は、1回戦では遊撃を守り、大量リードした試合終盤は中堅の守備についた。2回戦の静岡戦でも序盤は遊撃を守ったが、競ったゲームの火消し役としてマウンドにも上がり、8回、9回を零封して勝利に貢献した。「甲子園は不思議なところでした。(いろんなポジションで出場して)全部、楽しいです」(根尾) 史上初の選抜決勝大阪対決を実現した今年の大阪桐蔭の2年生には、来秋のドラフト1位になりうる逸材が4人も5人もズラリと並ぶ。中でも出世頭が根尾なのだ。飛騨高山で生まれ育った彼は、中学時代に既に146キロを記録。スキーの回転で中学生日本一になった経歴も持つ。両親が共に医師という家庭に育ち、勉強の成績も優秀だ。 すべてをそつなくこなす大人びた選手であるため、先輩の3年生たちは彼を「根尾さん」と呼ぶらしい。 野手の注目株は、昨夏、1年生ながら根尾と共にベンチ入りした中堅手の藤原恭大だ。西谷監督が「根尾もかなり速いが、藤原はもっと速い」という俊足(50メートル5秒8)。一発もある。「目標とする選手は、(走攻守)三拍子揃った柳田悠岐選手です」(藤原) 同級生のエース格が横川凱(かい)だ。190センチの長身左腕で、角度のある140キロオーバーの直球と、スライダーを武器とする。ただ、2回戦では初回に5失点(自責4)。1死しか奪えずマウンドを降りるホロ苦デビューとなった。 まだまだいる。準決勝でチームの全2打点をあげた三塁手の山田健太。愛知出身の彼は昨秋、大阪桐蔭の4番に座り、選抜では初戦で同級生の誰よりも早くスタンドにアーチをかけた。スタメン出場する一塁手の中川卓也もいる。2015年の選抜で青森の八戸学院光星のエースだった兄・優は大阪桐蔭に敗れたが、兄のリベンジよりも、「激戦区大阪で日本一を目指したい」と入学を決めた。 過去、同一年に同一高校からドラ1が複数出たのはPL学園のKKコンビなど2人が最多。来秋、それを塗り替えるのは大阪桐蔭かもしれない。●取材・構成/柳川悠二(ノンフィクションライター。著書に『永遠のPL学園 六〇年目のゲームセット』など)※週刊ポスト2017年4月14日号
2017.04.03 07:00
週刊ポスト
【著者に訊け】柳川悠二氏 小学館NF大賞作『永遠のPL学園』
【著者に訊け】柳川悠二氏 小学館NF大賞作『永遠のPL学園』
【著者に訊け】柳川悠二氏/『永遠のPL学園 六〇年目のゲームセット』/小学館/1500円+税 昨夏、高校野球の名門がその活動に幕を下ろした。桑田真澄や清原和博など数々の名選手を輩出してきた大阪のPL学園。輝かしい戦績を誇る野球部に一体、何が起きたのか。その謎に正面から挑んだのがノンフィクションライターの柳川悠二氏だ。2年半に及んだ取材の一部始終を記した『永遠のPL学園 六〇年目のゲームセット』は昨秋、第23回小学館ノンフィクション大賞を受賞。 今週の「著者に訊け!」はジャーナリスト・森健氏が聞き手を務める。一昨年、稀代の名経営者が人知れず抱えていた葛藤を描いた『小倉昌男 祈りと経営』で同賞を受賞し話題を呼んだ森氏は、やはりメディアの注目を集めながらも謎だらけだった名門野球部の廃部の実態に迫った柳川氏の作品をどう読んだか──。 * * * 本書を手にとると、まずカバーに写る選手に驚く。名門PLの選手とは思えない華奢な体躯。彼らこそ、PL野球部62期生、最後の部員だ。柳川氏も2014年8月、取材をはじめてすぐ、その異様な姿に気づいたという。「背も小さいし、ひょろっとした体格。野球推薦で入る特待生がいなくなっていて、一般入学の高校生ばかりになっていたんです。超名門のPLに、実に不釣り合いな彼らをはじめて見たときには驚きました」 その取材時、柳川氏は監督に話を聞き、さらなる衝撃を覚える。監督に野球経験はなく、学園で長年国語の教員を務めた、PL学園の校長だった。疑問を覚えた柳川氏は、なぜ専門の監督を使わないのかと尋ねた。校長は野球とは異なる文脈で答えた。監督にも信仰心が求められるんですよ、と。「そして、いきなり『教団』の内情を語ってくれたんです。そこでわかったのは、想像以上にPL野球部は教団の支援を受けていたということ。野球推薦の特待生が存在できたのは、教団が浄財(信者の寄付)を流してくれたからです。ところが、そのお金が教団から流れなくなった」 校長は、学園の母体である宗教団体「PL(パーフェクトリバティー)教団」の影響を口にした。野球部の異変はPL教団と関係があるのではないか──。そんな疑問から柳川氏は教団と野球部の関係を追っていくことになった。 取材される側はいまだ慣れていなくて……と柳川氏は打ち明ける。最近もラジオで十数秒沈黙し、「放送事故とツイッターで書かれた」らしい。だが、そうした照れ屋で慎重な性格が、ガードの堅い人が多かったこの取材ではうまく働いた節がある。これまで口が重かったPLの重要人物が、柳川氏の取材には内情をあけすけに語っているのだ。 そもそもPL野球部と宗教団体のかかわりが取り上げられたことは多くない。「PL野球部を扱うとき、大手紙も含め、信仰については触れてこなかった。でも、PLの試合をよく見てみれば、その存在は相当大きかったと言えるんです」 その一つが、打者がバッターボックスに入る直前にユニフォームの胸の部分を握りしめる所作だ。「おやしきり」という名の宗教儀式で、教祖である「おしえおや」に「しきる(祈る)」という意味をもっていた。「信者の情報網を使って、各地の優秀な選手情報を集め、PLに迎え入れる。練習後は教団の教師が講話をして精神面の大切さを教える。そうした心技体を鍛えるシステムが機能した時期がありました。まさに桑田や清原が活躍した1980年代半ばのことです」 その黄金期、PLは立浪和義(中日)や片岡篤史(阪神)、宮本慎也(ヤクルト)といった選手を次々と輩出していく。この時代を支えたのは中村順司という監督だ。だが、中村氏が1998年に退任すると、PLの歪みが露見していく。野球部内での暴力問題である。◆教団にとっては暴力は「お荷物」 2001年には上級生が下級生をパイプ椅子で殴打した事件が発覚。高野連から6か月の対外試合禁止処分が下された。その後も暴力事件は散発的に報じられ、次第にPLの病が根深いことが知られていく。ただし、こうした暴力事件はPLだけが特別ではなかったと柳川氏はいう。「暴力はどの野球部でも珍しくないし、実際いまでもある。暴力は言語道断ではあるんですが、先輩と後輩の関係性で全否定もしにくい部分もある。そういう趣旨のことはPLのOBも語っており、だからその後の連鎖も止められなかった」 この暴力事件の連鎖がPLをゆっくりと蝕んでいく。「世界平和を謳っている教団としては、暴力事件を繰り返す野球部が“お荷物”となってしまったのかもしれません」 野球部ばかり注目される状況に反発する教団内部の空気もあった。「カリスマ的な教祖が亡くなったのが1983年。その直後にPL野球部に全盛期が来るのですが、徐々に教団と野球部に距離ができていく。一方、教団の信者が減っていく問題もありました。公称でも265万人という信者数が30年ほどで90万人と大幅に減少した。現在の信者の実数はさらに少ないでしょう。教団の財政も悪化するわけです」 PL教団の立教は終戦翌年の1946年。野球部は1955年の創部だ。その後の教団や野球部の隆盛と減退が日本の戦後の盛衰と一致しているのも興味深い。そうした背景に深く踏み込みながら、柳川氏は2016年夏、最後の地区大会の取材に足を運ぶ。「夢は甲子園」と言い続け、練習に励む選手たち。彼らを追う柳川氏の目線は温かい。「保護者みたいな気分でもありました。最後の12人の部員は彼らなりに試行錯誤して勝とうとし、微々たる改善ながら努力を重ねていた。そんな彼らを本当に好きになったし、最後まで見届けたいと思いましたね」 彼らの描き方にエールが滲んでいたのは、柳川氏の思いゆえだったのだろう。PL野球部の栄光と凋落は、日本が歩んできたそれともどこか符合する。柳川氏が描いたPLのストーリーに、読者一人ひとりは違った発見をするのでないか。【プロフィール】やながわ・ゆうじ●1976年宮崎県生まれ。ノンフィクションライター。法政大学在学中からスポーツ取材を開始し、出版社勤務を経て独立。高校野球の取材を2005年から始めて以降、春夏の甲子園取材をライフワークとする。主にスポーツ総合誌、週刊誌に寄稿。著書に『最弱ナイン』(角川書店)。「PL学園の最後の部員たちにこの作品を読んでもらって、自分たちの描かれ方をどう思ったか聞いてみたいです」。162cm、79kg、O型。■構成/森健(もり・けん):1968年東京都生まれ。ジャーナリスト。早稲田大学在学中よりライターとして活動。『「つなみ」の子どもたち』『つなみ 被災地のこども80人の作文集』で第43回大宅壮一ノンフィクション賞、『小倉昌男 祈りと経営』で第22回小学館ノンフィクション大賞受賞。■撮影/国府田利光※週刊ポスト2017年4月7日号
2017.04.01 07:00
週刊ポスト
早実・清宮vs履正社・安田 2020年侍ジャパンの4番は?
早実・清宮vs履正社・安田 2020年侍ジャパンの4番は?
 近年にない盛り上がりを見せるセンバツ甲子園。逸材揃いの球児たちのなかで、将来の日本球界を背負って立つのは誰か。新著『永遠のPL学園 六〇年目のゲームセット』が話題を呼んでいる柳川悠二氏(ノンフィクションライター)がレポートする。 * * * 春分の日と重なった第89回選抜高校野球大会の2日目。満員札止めの甲子園から約10キロ離れた伊丹スポーツセンターの野球場にも、400人近い高校野球ファンが足を運んでいた。お目当ては早稲田実業(東京)の清宮幸太郎である。 試合のない早実は紅白戦を行なっていた。清宮ら主力組に対し、控え組のマウンドに上がったのは早実OBで、早大2年の左投手。清宮は第1打席、大学生を相手に右中間スタンドのスコアボード直撃となる特大の一発を放った。「甲子園の試合の前に、これだけのお客さんの前で野球ができるのは幸せなこと。ホームランは追い込まれたあとのストレート。状態は上がってきている」 高校通算79本塁打。怪物1年生として騒がれた2年前の夏に比べて選球眼を磨き、ミスショットは明らかに減った。体重もこの冬の間に100キロを超え、怪物はさらに巨大化した。「今年のセンバツは、清宮君の大会でしょう。飛距離は目を見張るし、スタンドへのボールの持って行き方を知っている」 そう語ったのは、3月24日に、1回戦で早実と対戦する明徳義塾(高知)の馬淵史郎監督だった。 だが、大阪に彼と同等のポテンシャルを秘めた左の大砲が存在する。履正社の安田尚憲だ。188センチと身長は清宮を4センチ上回り、通算本塁打は49本。同校の先輩であるT-岡田(現オリックス)を彷彿とさせるがっしりとした体躯でありながら、やはり先輩の山田哲人(現ヤクルト)のような器用さも併せ持つ。 高校野球界の両雄は2020年の東京五輪を21歳で迎える。その時、侍ジャパンの4番に座っていてもおかしくない逸材である。◆2人とも筒香より上 清宮の父がラグビートップリーグ・ヤマハ発動機監督の克幸氏であることは有名だ。一方、安田の父・功氏も、昨年末の全国高校駅伝女子で2年ぶり2度目の優勝を果たした大阪薫英女子陸上部の監督である。12歳上の兄・亮太は、PL学園で一学年下の前田健太(現ドジャース)とバッテリーを組み、現在は三菱重工名古屋で主将を務める。 共にアスリート一家に生まれたふたりは、「東の清宮、西の安田」と、常に比較されるライバル関係にある。 昨秋の神宮大会決勝で早実と履正社は対決し、清宮と安田は、揃ってライトスタンドに本塁打を叩き込んだ。軍配は履正社にあがったが、試合後、安田は清宮の印象をこう語った。「レベルは清宮の方が上。自分が成長する上で、良いモチベーションになる」「君付け」しなかったところに意地も透けて見えた。 選抜における安田の初打席は大会初日だった。相手は、昨秋の東京大会決勝で、清宮から5打席連続三振を奪った日大三のエース左腕・櫻井周斗。清宮との力の差を測るには絶好の相手だ。安田は最初の3打席で3三振。まるでタイミングが合わなかった。 しかし、最終第5打席ではレフトの頭上を弾丸ライナーで超えるタイムリーを放って勝利に貢献。 この一打を評価したのは、名門・横浜高校の元コーチで、甲子園通算51勝の渡辺元智監督を参謀として支えた小倉清一郎氏だ。「膝とキンタマの間ぐらいの高さのボールを、強い打球で逆方向に持っていった。これは清宮にはない技術。ただ、最初の3打席は、すべてボール球を振っていた。注目が集まり、良いところを見せたいという“色気”と、もろさが出た。1打席目は三振しても、2、3打席目は対応しないといけない」 厳しい指導で松坂大輔や、今回のWBCで4番に座った筒香嘉智(現横浜)らを育てた名伯楽は、清宮についても次のように語った。「インコースのボールを捌く能力は同じ左打者の安田より上かもしれない。引っ張り専門の清宮のほうが、飛距離も上。ただ、外のボールに対しては……。安田が右手でバットをコントロールして振り出しているのに対し、清宮は左手でコントロールしているように感じる。それだと、遠いアウトコースのボールにバットが届かない。また、一塁しか守れないのはプロに行ってから困るでしょうね。外国人選手と競わなければいけないポジションですから」 だからといって「安田が上」と断じるわけではない。「もう少し成長を見守る必要がある。高校時代の筒香は、バックスイングから振り出す際に腕がギッコンバッコンし、振り遅れてばかり。私は“どん詰まりの筒香”と呼んでいた。高校時点の筒香と比較すれば、ふたりの方が力は上回る」 プロ入り後に筒香が悪癖を修正して伸びたという意味でもあり、ふたりが筒香のように活躍できるという保証ではない。◆「自分の形」にこだわるな 選抜優勝候補の一角・大阪桐蔭の西谷浩一監督は、2年前の夏にU-18侍ジャパンの指揮官として清宮を指導した。大会終了後、清宮に対し、こう苦言を呈していたことを覚えている。「彼はよく、『自分の形』という言葉を口にする。それを大事にするのは重要ではありますが、こだわりすぎるきらいがある。そこがこれから2年間の課題」 選抜を前に、改めて西谷監督の清宮評を訊ねた。「特に内面(精神面)が成長したように思います。野球というスポーツは、主導権は投手にある。全打席で自分の形で打つことは不可能。崩されても打ち返す対応力という点では、2年前から成長が感じられます」 甲子園のライトスタンドに放物線を描いた松井秀喜や前述の筒香ら左のスラッガーたち。メジャーや国際大会ではさらに輝きを放った。清宮や安田が同じように成長を続け、侍ジャパンの4番を打つ日がきても、何も不思議ではない。※週刊ポスト2017年4月7日号
2017.03.25 07:00
週刊ポスト
甲子園注目の履正社・安田 実はPLに行きたかった
甲子園注目の履正社・安田 実はPLに行きたかった
 3月19日に春のセンバツこと、第89回選抜高校野球大会が開幕する。大会初日の第2試合で登場するのが、昨秋の神宮大会を制した優勝候補の一角、履正社(大阪)だ。プロのスカウトも注目する履正社の4番バッターについて、新著『永遠のPL学園 六〇年目のゲームセット』を上梓した柳川悠二氏(ノンフィクションライター)がレポートする。 * * * 開幕が目前に迫ったセンバツの優勝候補・履正社には、早稲田実業(東京)の清宮幸太郎と並ぶ左の大砲、安田尚憲(ひさのり)がいる。 全国屈指の激戦区・大阪で、大阪桐蔭と2強をなす履正社にあって、安田は1年生の夏からベンチ入りし、昨年夏には甲子園の土を踏んだ(結果はベスト16、国体は優勝)。さらに最上級生となってから、チームは昨秋の近畿大会を制し、秋の日本一を決する神宮大会では、決勝で早実と対決。安田はライトスタンドに本塁打を叩き込んで勝利に貢献した。 188センチの長身でスケール感は先輩のT-岡田(現オリックス)をしのぎ、ボールを手元まで引きつけ、身体の軸を回転させて遠くにはじき返す。大柄な割に、やはり同校の先輩である山田哲人(現ヤクルト)のような器用さも併せ持つ。 彼の本塁打を初めて目にしたのは、昨春の大阪私学大会だった。相手はPL学園で、場所は履正社のグラウンドだった。 その第1打席。左バッターボックスに入った安田がつぶやいた言葉を、PL学園の捕手で、主将だった梅田翔大から聞いたことがある。「自分もPLに入りたかったんです」 安田は、1980年代から2000年代にかけて、大阪の高校野球を牽引してきた名門・PL学園に入学予定だったというのだ。実は、安田の11歳上の兄である亮太が、かつてPL学園の野球部に在籍し、1歳下の前田健太(現ドジャース)とバッテリーを組んでいたというのである。兄は現在も現役を続け、三菱重工名古屋で主将を務めている。昨秋の大阪大会の際、安田はこう語っていた。「自分が誰よりも憧れている野球選手は兄で、今も尊敬しています。時々、兄からもアドバイスをもらっています」 その兄と同じ道を歩もうとしたが、安田が中学3年生だった2014年10月、PL学園は翌年からの新入部員の募集停止を決定し、安田は履正社に進学した。 憧れのPLとの試合で、安田はバックスクリーンの左に建つブルペンの天井に当たる、推定130メートルの特大本塁打を放った。同年夏以降の「休部」が決まっていたPLに対する、いわば惜別の一打となった。「やっぱりPLが相手で、気持ちが入りました。手応えはありました」 ちなみに、彼の父親である功さんは、大阪薫英女学院陸上部の監督を務め、昨年12月の全国高校駅伝女子の部では2014年以来、2度目となる日本一に導いた名将である。母も元アスリートだといい、こういうスポーツ一家のDNAが、安田を大きく成長させた。 選抜で履正社は大会初日に早くも登場する。相手は、東京の日大三。同校には、昨秋の東京大会決勝で、早実の清宮を5打席5三振と、完膚無きまでに抑え込んだエース左腕・櫻井周斗がいる。「東の清宮、西の安田」と、常に同級生のライバルと比較される安田だが、清宮が打ちあぐねた櫻井との対決は、大きな注目を集めることはもちろんのこと、彼自身、期するものがあるはずだ。 安田は言う。「神宮大会で優勝することができたので、春も、夏も無敗で高校野球を終えたい」 目指すは“三冠”である。
2017.03.18 16:00
NEWSポストセブン
センバツ大阪2強・大阪桐蔭と履正社、それぞれの強さの秘密
センバツ大阪2強・大阪桐蔭と履正社、それぞれの強さの秘密
 3月19日に開幕するセンバツ甲子園。怪物スラッガー・清宮幸太郎(早稲田実業)と並んで注目されるのが激戦区大阪から出場する大阪桐蔭と履正社だ。新刊『永遠(とわ)のPL学園 六〇年目のゲームセット』を上梓した柳川悠二氏(ノンフィクションライター)が両校の強さの秘密に迫る。 * * * 陽が沈み、ライトに照らされた大阪桐蔭グラウンドの一塁側ブルペンで、ふたりの1年生投手が白球を投げ込んでいた。「今のカーブ、うまく腕が抜けてて、良い感じでした。次、ストレートいきます!」 爽快な声の主は根尾昂(あきら)。岐阜県の飛騨高山出身の彼は、中学時代に146キロを記録し、入学前から注目を集めていた“怪物右腕”だ。中田翔(日本ハム)、森友哉(西武)など“やんちゃ”な印象のOBが多い中で、両親とも医師という根尾は中学時代の成績がオール5で、生徒会長を務めた秀才だ。 隣で投げていたのは190センチ左腕の横川凱(かい)。全国的には無名の存在だが、直球はやはり140キロを超える。 彼らは100回目となる来夏の選手権大会を3年生として迎える。記念大会制覇を見据え、監督の西谷浩一(47)が例年になく“補強”に力を入れた世代と噂された。西谷は苦笑いする。「記念大会に向けたチーム作りでは絶対にありません。今年の選抜も、夏も勝ちたいし、来年の100回大会、再来年の101回大会も同じように勝ちたい」 大阪桐蔭野球部は、これまで春1回、夏4回の甲子園制覇を誇る。だが、直近の2年で大阪桐蔭を凌ぐ戦績を残している学校が同じ大阪にある。 2年連続トリプルスリーを達成した山田哲人(ヤクルト)や、今年ドラフト1位でヤクルトに入団した寺島成輝を輩出した履正社だ。 寺島がいた昨年のチームは、夏の甲子園でベスト16、国体では初優勝を果たした。新チームとなった昨秋、神宮大会では清宮幸太郎のいる早稲田実業に打ち勝ち、日本一に輝いた。1987年から指揮をとる監督の岡田龍生(55)は謙遜しながらこの2年の快進撃を振り返った。「力のあった寺島の代のチームが、2015年秋の大阪大会3位決定戦に負けて、2016年選抜に出られなかった。その悔しい1敗が去年と今年のチームを成長させてくれました」 選抜でも覇を競う両指揮官は、経歴や指導、選手勧誘の方針からして対照的だ。◆PLに勝ちたいんや 履正社の岡田は、1961年に大阪に生まれた。母は戦後間もない50年からおよそ2年間行われた女子プロ野球の第一号選手で、岡田少年のキャッチボールの相手をしていた。「礼儀や躾(しつけ)に厳しく、ようけしばかれました(笑)」 高校は兵庫の東洋大姫路に進学。当時の兵庫では、報徳学園と2強を形成していた。報徳に勝てば監督の機嫌が良く、負ければ地獄が待っていた。「当時の高校野球には厳しい上下関係があり、根性とか、執念とかの世界。もはや部活動ではなく修業ですよね。練習中は監督に、終われば先輩にいつしばかれるかわからない恐怖があり、毎日、練習が嫌で仕方なかった。1979年の選抜には出ましたが、卒業後は完全に燃え尽き症候群に陥りました」 引退後、桜宮高校のコーチを経て、履正社の監督となったのは1987年のことだ。その年、立浪和義らがいた同じ大阪のPL学園が春夏連覇を達成した。「当時の履正社は選手もおらへんし、PLと勝負できる実力ではないのに、“PLに勝つか、オレにしばかれるか”というような恐怖政治を敷いていました」 10年後の1997年夏には甲子園出場を果たすが、チーム力を持続できない。転機は2002年。岡田は生徒に手をあげ、高野連から6カ月の謹慎処分を受けた。「結局、やらされる練習では生徒も野球を楽しめず、上達しない。それからは自主性を重んじ、練習の質を求めた。毎日のテーマを決め、選手自ら課題と向き合い、考えさせるような形に変えました」 岡田を訪ねた日、最初の練習メニューであるキャッチボールから選手に寄り添い丁寧に指導していた。「グラブの捕球面をはっきり相手に見せるんや!」 岡田は言う。「プロを見ても、基本練習ばかり。山田にしても(T-)岡田(現オリックス)にしても、卒業生がプロで活躍する確率が高いのは、基本を大切にしてきたからだと思っています」 今年も、ドラフト上位候補がいる。清宮と並ぶ左の強打者・安田尚憲だ。安田は「秋に続いて選抜、夏も日本一になりたい」と高い目標を口にしている。一方、大阪桐蔭の西谷は、8歳上の岡田が通った東洋大姫路と兵庫でライバル関係にある報徳学園のOBだ。 1969年、兵庫県宝塚市に生まれた西谷にとって、小学6年生だった1981年、エースで4番の金村義明を中心に全国制覇を成し遂げた報徳は憧れだった。しかし入学後、1年の冬にチーム内で不祥事が起きて対外試合禁止処分に。最後の夏も暴力事件が発覚して出場辞退となり、3年間で一度も、甲子園に出場できなかった。西谷が言う。「だからこそ甲子園に対する思いは人一倍強いと思うんです。監督として甲子園に出る度に選手をうらやましく思う。甲子園に足を踏み入れれば『帰って来られた』と思うし、敗れて後にするときは『また戻って来られるのか』と不安になる」 関西大学を卒業後は母校のコーチを一時務め、1993年から大阪桐蔭のコーチに就任する。岡田と同様、目標としたのはあの学校だった。「どうやったらPLを倒せるか。そればかり考えていました。最初は、良い選手さえ獲れれば差は縮まると思っていました。ところが、誘ってもなかなか入学してもらえない。PLに『A(クラス)』の選手が行くとしたら、うちにはやや劣る『B』の選手しか来ない。そんな状況でPLと同じことをやっていたら、一向に差は埋まりませんよね」 PLでは入学した1年生が上級生の付き人となり、身の回りの世話をするのが伝統だった。大阪桐蔭でもそれを踏襲していたが、西谷は改革を断行する。「PLの1年生が先輩の世話に時間を取られている間、うちの1年生に練習させれば、Bの選手がBダッシュまで成長できるかもしれない。それでようやく、PLと勝負になる。当時の上級生達に頭を下げ、洗濯などを各自でやらせるようにしました。そして1年生には朝の5時から練習を課し、私も付き合いました」 その後、PLは不祥事が重なり、それが一因となって昨年、廃部に追い込まれた。その過程は新著『永遠のPL学園 六〇年目のゲームセット』に詳述したが、1998年に西谷が監督となった大阪桐蔭が、PLに替わる大阪の雄となっていく。「ただ、今もPLに追いついたとは思えません。記録でも記憶でも超えられない。それがPLだと思うんです」 西谷はそう呟いた。◆寮の桐蔭、通いの履正社 違ったやり方でPLを追いかけ、現在の高校球界を引っ張る大阪桐蔭と履正社では、生活や練習の環境が大きく異なる。全寮制の大阪桐蔭の選手が24時間、野球漬けの日々を送る一方、履正社には寮がない。授業が終わると全員でバスに乗り、40分かけて専用グラウンドに移動。帰宅に時間を取られる生徒もいるため、平日は練習を4時間で終え、グラウンドに残って自主練習することも難しい。 寮のある大阪桐蔭が遠方の選手を受け入れられる一方、「自宅から通いたい」と考えて履正社を選ぶ関西圏の生徒も出てくる。勧誘の際、岡田は家庭環境を確認するという。「選手は練習後、自宅で食事をするわけですから、ちゃんと栄養ある食事を食べさせているのか。ややこしい家庭環境にないか。面談で確認し、その結果、お断りすることもあります」 対する西谷の選手勧誘は“粘り強さ”が有名だ。中学野球の現場に頻繁に足を運び、惚れ込んだ選手は最後まで熱心に口説く。 昨年夏、筆者は中学時代にU・15侍ジャパンのエースだった高校1年生を取材した。全国の強豪40校から声がかかったという逸材に、西谷は「4番1塁で考えている」と声を掛けたという。まるでプロのスカウトのような誘い文句だ。結局、エースとして甲子園に立つ夢を持っていたその選手は別の強豪校に進学した。 その話を西谷にぶつけた。「少々、誤解があります。投手を諦めろと言ったわけじゃないんです。ただ、将来プロを目指すなら野手としての方が伸びしろがあると思い、投手をやりながら野手もやらないかと誘った。僕自身、投手としての力は横川や根尾が上だと思っていた。子どもに対して、嘘はつきたくないんです」 そう明かした西谷は、履正社について、「甲子園に出るには勝たなくてはならない相手。ただ、かつてPLに抱いたような感情はありません」とコメントした。 それでも、両校の対戦はどこか因縁めいている。昨年5月、春季大阪大会の決勝でぶつかった際は、履正社・岡田の母の通夜の日と重なった。 試合は履正社が勝利し、岡田は葬儀場に直行。棺には決勝でかぶった帽子を入れ、「夏、これをかぶって応援に来るんやで」と夏の甲子園出場を母に誓い、その約束を果たしている。 早実・清宮の存在もあり、例年以上に注目を集める選抜。優勝候補の筆頭格が大阪の2強なのは間違いない。同じ大阪の高校が甲子園でぶつかるのは選抜だけ。両校が全国の舞台を勝ち上がり、激突すれば空前の盛り上がりとなる。(文中敬称略)※週刊ポスト2017年3月24・31日号
2017.03.15 11:00
週刊ポスト
センバツ・大阪桐蔭の注目選手 兄はPL「最後の部員」の因縁
センバツ・大阪桐蔭の注目選手 兄はPL「最後の部員」の因縁
 3月19日に“春のセンバツ”こと、第89回選抜高校野球大会が開幕する。怪物スラッガー・清宮幸太郎(早稲田実業・東京)に報道は集中しているが、他にも見どころは数多くある。 優勝候補の一角、大阪桐蔭の注目選手を巡る知られざる因縁について、新著『永遠のPL学園 六〇年目のゲームセット』を上梓する柳川悠二氏(ノンフィクションライター)がレポートする。 * * * 大阪桐蔭は今や、1980年代のPL学園のように、全国から甲子園、そしてプロを夢見る球児が集まる名門校だが、今年のチームは4月に2年生となる世代に注目が集まる。 筆頭格は、中学時代に146キロを投げ、スキーのスラロームで日本一になった経験もある右腕・根尾昂(あきら)だ。大阪桐蔭では、ショートや外野を守る強打者としても活躍する。さらに190センチ左腕の横川凱(かい)。「彼がエース格となればチーム状況は良い状態」と西谷浩一監督が話す。 これほどの長身で、角度をつけた直球と鋭いスライダーを投げる投手は、高校野球の歴史を紐解いてもなかなか見当たらない。昨年の秋季大阪大会では先発登板の直前に左手の指のまめをつぶして回避するなど公式戦の登板実績が乏しく、冬の間にはケガもあった。全国的には無名だが、選抜に向けた大阪桐蔭のいわば“隠し球”だ。 だが、筆者が個人的にその身体能力に注目するのがセンターを守る藤原恭大(きょうた)である。 中学時代に所属した硬式野球の枚方ボーイズでは投手も務め、球速が140キロを超えていたという強肩の持ち主。大阪桐蔭入学後は外野手に専念している。 特筆すべきはその足だ。50メートルを5秒8で走り、本人も「真面目にやれば100メートルも10秒台を狙えるかもしれません」と話す。野球に必要な足は直線をいかに速く走るかではないが、藤原のベースランニングには西谷監督も舌を巻く。「私が見てきた選手で一番かもしれません。根尾もかなり足が速いんですが、藤原はもっと速い」 筆者が藤原の噂を耳にしたのは昨年の春だった。入学したばかりにもかかわらず、沖縄の招待試合で早くもスタメン起用され、本塁打を放って注目トリオの中で一番に出世した。 7月の夏の大阪大会直前、東海大相模と練習試合を行っていた舞洲スタジアムに足を運んだ際、同校の有友茂史部長と話して驚きの事実を知った。「うちの藤原のお兄ちゃんが、PL学園におるんですよ」 私はPL学園の廃部問題を2年半にわたって取材してきた。12人しかいなかったPL学園の最後の部員には、藤原姓の選手がふたりいた。そのうちの一人である藤原海成は、練習試合に足を運ぶ中で、もっとも言葉をかわした選手だった。 レフトのレギュラーだった彼は3年春の練習中に、右肩関節唇損傷という大ケガを負い、キャッチボールもままならない状態で、最後の夏を迎えようとしていた。その彼からは2歳下の弟がいることを聞かされていた。 しかし、その弟がどこの学校に通っているのかは語ろうとしなかった。語りたがらない話題をこちらが無理に聞き出すこともない。 後日、海成に「驚いたよ」と伝えた。「別に隠すつもりはなかったんです。ただやっぱり、弟には迷惑をかけたくなかったので、自分から言う必要はないかなって。弟、めっちゃすごいっす。完全に上(プロ)を見ていますよね。兄として尊敬していますし、僕なんて、ぜんぜんかなわないです(笑)」 藤原兄弟の父が明かす。「弟は兄を目標に頑張ってきた。二人とも昔から仲が良くて、恭大は兄と一緒に甲子園を目指したかったんです。だから進路もPLを考えていたんですが、(2014年10月に決まった)新入部員の募集停止で、それも難しくなった。兄は弟を応援し、弟も兄を応援する。父親として誇りに思う、そんな兄弟です」 兄は最後の試合で、前日のケガによって出場できなった仲間の代わりに、まともに返球ができない状態ながら、急遽、レフトでスタメン出場した。弟に負けない強打者だったが、4打数4三振という結果に「一生悔いが残ります」と語っていた。 一方、恭大に話を聞くことができたのは、昨秋の大阪大会の試合後だった。「やっぱり兄と野球をしたかったんです。これからは兄の分まで、という気持ちはあります。甲子園で活躍する姿を見せたいです」 かつて大阪の覇者だったPL学園は昨年、事実上の廃部となった。現在は、大阪桐蔭がその座につく。甲子園を目指した藤原海成の果たせなかった夢は、弟の恭大が引き継ぐ。
2017.03.13 16:00
NEWSポストセブン
世界と戦うなら清原、黒ノリらで「落ち武者Japan」結成を
世界と戦うなら清原、黒ノリらで「落ち武者Japan」結成を
 熱戦が繰り広げられているWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)だが、今回の侍ジャパンは真面目な分、おとなしく、侍というより“優等生ジャパン”といった趣だ。かつての日本プロ野球界には、「侍」の名にふさわしい無頼たちがゴロゴロしていた。そんな選手たちを集めてつくるチーム、その名も「落ち武者ジャパン」。スポーツ紙記者や球界OBらの推薦で“最恐”オーダーを組んでみた。「キューバや豪州に勝ったからって喜び過ぎなんです。日本の実力からいって勝って当たり前。今の選手たちは相手を尊重しすぎる。“負けるわけない”ぐらいでいい。今のままでは米国が待つ決勝ラウンドを勝ち抜けるか怪しいですよ。ベンチに向かって“アホか!”と言えるような“無頼”が出てこないと」 現役時代、球界きっての問題児……、失礼、暴れん坊と言われた江本孟紀氏はそう吠える。 世界一奪回を目指す日本代表に必要なのはどんな選手か。「リハビリが済んでいれば」という前提で、複数の球界関係者が声を揃えたのが、あのスラッガーだ。「清原和博(元・西武、巨人ほか)です。人気・実績に加え、PL学園時代から見せてきた大舞台での勝負強さがある。“落ち武者ジャパン”のファースト・4番は彼しかいない」(スポーツ紙巨人担当記者) そうはいっても現在の清原は、精神的にも野球どころではないだろう。そこで清原を推す関係者らは、サポート役として一昨年に引退した小田幸平(元・巨人、中日)の名を挙げた。「小田は清原と懇意で、深夜でも清原の電話1本で駆けつけた。プロレス技をかけられても笑顔を絶やさない小田の存在は、清原の精神安定剤となるはず」(同前) 内野手では、中村紀洋(元・近鉄、中日ほか)も“大人気”だ。「豪快なフルスイングで通算404本塁打を放った中村は2つの顔を持つ。近鉄時代にFA宣言した際は、8年43億円の年俸の他、ゴルフ会員権、家族にボディガードを要求。好成績を収めていた時は“黒ノリ”となるが、クビになった後に他球団に拾われると、丸坊主にし反省の意を見せて“白ノリ”に変身する。今回は“黒ノリ”を前面に出して国際舞台で暴れてほしい。 まだ引退宣言していませんし、加えて“落ち武者ジャパン”には珍しいメジャー経験者。ただし17試合だけですが……(苦笑)」(球界OB) 今回、大谷翔平(日ハム)らの不参加が決まり、投手陣に不安が残る。菅野智之(巨人)や藤浪晋太郎(阪神)といった優等生タイプの投手では、強敵の米国、ドミニカのコワモテ選手相手に攻めの投球ができるか。菅野のコントロールがいいといっても、彼らは外角低目を力ずくでスタンドまで持っていく。するとスポーツ紙記者からはちょっと意外な現役選手が推薦された。「久保康友(DeNA)です。久保は通算与死球数が89と現役投手の中では最も多い。死球を恐れずインコースをガンガン突いて打者を翻弄できる。中継ぎには高木京介(元・巨人)でどうでしょう。野球賭博関与で2016年シーズン開幕前に契約解除されましたが、プロ入り後117試合負け無しのプロ野球記録保持者。その勝ち運は負けたら終わりの国際大会でこそ発揮してもらいたい。ちなみに3月8日をもってNPBの失格処分が解けているんです」(スポーツ紙デスク) 抑えは昨年メディアを騒がせた野村貴仁(元・オリックス、巨人ほか)で決まりだろう。 現役時代、左腕から繰り出す150キロくの速球は監督だった長嶋茂雄に絶賛された。昨年は一時期、ボサボサの髪型と伸ばしっぱなしの髭でテレビに出ており、その風貌はまさに“落ち武者”。現在は格闘家を目指してトレーニング中というから、乱闘になっても屈強な外国人選手相手に立ち向かってくれるだろう。 猛者揃いの投手陣をリードする捕手は前出の小田に加えてデーブ大久保(元・巨人ほか)。西武のコーチ時代、選手に対する“熱すぎる指導”が問題になって解任されたほどの熱血漢だ。野球通で知られる漫画家のやくみつる氏が言う。「ホームベース上のクロスプレーでは小林(誠司・巨人)のようなスマートな捕手ではひとたまりもないが、デーブなら張り合える」※週刊ポスト2017年3月24・31日号
2017.03.13 16:00
週刊ポスト
ズルズルと繋がらずスッパリ関係を断つのも1つの手
無宗教者激増現象「グーグルは神の最大の敵」「頼るはスマホ」
 宗教界にかつてない異変が起きている。宗教に救いを求める人々が激減しているのだ。人々はなぜ、「神」と距離を置くようになったのか。宗教学者の島田裕巳氏が解説する。 * * * 日本の宗教が消滅の危機を迎えている。文化庁の『宗教年鑑』によれば、新宗教の信者数は軒並み激減しているのだ。その象徴が、大阪に本部を置くパーフェクト リバティー(PL)教団だ。平成2年版の『宗教年鑑』で約181万人だった信者数は平成27年版で約90万人に半減。毎年8月に大阪で開催される「教祖祭PL花火芸術」では、目玉の花火イベントが規模を縮小し、かつて甲子園の強豪校として名を馳せたPL学園の野球部は休部となった。 天理教、立正佼成会などの信者数も大幅に減った。最も信者の多い創価学会が公表する会員数は827万世帯で近年は変化がなく、実態はよくわからないが、20年前に300万人ほどだった実際の信者数は現在250万人ほどと推測される。 既成宗教も例外ではなく、仏教にしろ神道にしろ、檀家や参拝者数は確実に減っている。なぜ、日本の宗教は力を失ったのだろうか。 そもそも新宗教は、高度成長時代に地方から都市に出てきた労働者をターゲットに急成長した。都会に身寄りのない人たちに人間関係のネットワークを与えることで、信者を大幅に増やしたのだ。 だが現在、高度成長期に入会した信者の高齢化が進み、宗教的な活動を行うことが難しくなった。 その一方で、新たな信者は増えていない。昔は「病気のなおし」を求めて入信する人も多くいたが、現在は医療や社会保障制度が進歩し、宗教に入信する前に病院に行く時代となった。 昔ほど人間が移動しなくなり、地域に定着した影響も大きい。若者が地元愛でつながる「マイルドヤンキー現象」など、今は各地でゆるい地域共同体が形成され、宗教に人間関係を求める必要がなくなった。 現在、何か悩みを抱える若者が真っ先に頼るのは神ではなくスマホだ。米国の研究では、無宗教者とネット利用者の増加に相関関係があるとし、「グーグルは神の最大の敵」「神殺しの犯人」と言われる。 総じて、これまで宗教が果たしてきた役割が別の手段で代替される時代となり、“宗教でないとできない”ものが消滅しつつある。 これは世界的な潮流だ。経済が発展途上の国では格差などの歪みが広がり、救いを求める人が増加するが、いったん経済成長が止まると信者の増加もストップする。実際、ヨーロッパを中心とした先進国が低成長となる中、キリスト教は衰退の一途をたどり、「最後の牙城」とされる米国でも無宗教者が増えている。 世界の宗教は歴史上最大の危機に直面しているのだ。 宗教消滅の時代においては、日本の社会から「神聖な存在」が失われていく。その最たるものが天皇だ。近代における天皇は、大日本帝国憲法を通してキリスト教の神に匹敵する存在となった。戦後も巡幸などで国民の崇敬の念が高まり、より聖なる存在になった。 その天皇が譲位の意向を示し、平成が終わろうとしているが、次の天皇を含め、皇位継承者はわずか4人しかいない。何らかのアクシデントがあれば、皇室が存続できなくなる。日本人は天皇制の極めて脆弱な基盤を直視して、「ポスト天皇制」を真剣に考えるべきだろう。●しまだ・ひろみ/1953年東京都生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術センター特任研究員、同客員研究員を歴任。著書多数。近著に『スマホが神になる』(角川新書)、『天皇と憲法』(朝日新書)、『人は死んだらどこに行くのか』(青春新書インテリジェンス)などがある。※SAPIO2017年3月号
2017.03.01 16:00
SAPIO
元巨人・橋本清氏、デーブ大久保氏の居酒屋でバイト中
元巨人・橋本清氏、デーブ大久保氏の居酒屋でバイト中
“所在不明”だった巨人OBの姿が、サラリーマンで賑わう東京・新橋の居酒屋で見られるようになったのは昨年の10月頃。常連客が興奮気味に言う。「ビックリしました! お店のTシャツを着たデカい中年男性が“生ビールです”って運んで来た。顔を見たら、あの橋本だったんです」 橋本とは、1987年のドラフト1位でPL学園から巨人に入団し、中継ぎ投手として活躍した橋本清氏(47)である。 2001年の現役引退後、野球解説者やタレントとして活躍していた橋本氏だが、昨年7月以降、表舞台で見られなくなった。スポーツ紙の巨人担当記者が語る。「巨人選手の野球賭博事件や清原(和博)の覚醒剤所持による逮捕などが相次ぐなか、橋本が現役選手と暴力団関係者の“橋渡し役”だったと一部メディアで報じられたためです。選手の“黒い交際”がクローズアップされていたため、橋本に対して球界は過敏に反応した」 当時、橋本氏は本誌の取材に対し「(疑惑の暴力団関係者とは)2~3回会っただけで芸能関係者だと思っていた。選手を紹介したこともない」と否定していたが、その後、橋本氏はレギュラー出演していた番組から姿を消してしまった。そんな橋本氏の新たな“職場”が、新橋の居酒屋『肉蔵でーぶ』である。 ここは、西武や巨人で強打の捕手として活躍した後、楽天で監督も務めたデーブ大久保氏(50)が、昨年3月にオープンした居酒屋だ。博多の屋台を模した店内で、焼き肉、おでん、ラーメンなど多彩なメニューを楽しめる。デーブ氏に聞いた。「え、橋本? 今日はいないけど、週に1回ぐらいは働いていますよ。あいつは巨人時代の後輩で、バッテリーも組んでいた。去年あんなことになって仕事がゼロになったっていうから“うちで働いてみないか”って誘ったんです。野球の仕事がダメになった今、あいつはバーのような飲食店をやりたいそうです。その勉強も兼ねてるんでしょう。 プロ野球とか芸能界っておとぎ話みたいなもんで、ケタ違いのお金をもらえるから、普通の感覚がマヒしてる。ここではお客さんに頭を下げながら、1杯500円の焼酎を売る。アイツなりに苦しみながら、一生懸命働いてくれてますよ」 残念ながら本誌記者は橋本氏に会えなかったが、往年の名バッテリーに会える居酒屋として繁盛しそう。※週刊ポスト2017年2月27日号
2017.02.13 16:00
週刊ポスト
天覧試合から60年、秘話を明かす
PL教団 野球部廃部、信者の実数は数万人程度に減少か
 昨年、かつて甲子園の常連校だったPL学園野球部が休部(実質上の廃部)に追い込まれた。母体のパーフェクト リバティー(PL)教団が、目に見える形で活動規模を縮小し続ける背景には何があるのか。ノンフィクションライターの柳川悠二氏がレポートする。 * * * PLの2代教祖・御木徳近(みきとくちか)が鬼籍に入ったのは、1983年2月2日である。 彼の葬儀で流されたメモリアルビデオでは福田赳夫や若き日の森喜朗、石原慎太郎といった政治家との交流が描かれ、さらには長嶋茂雄や王貞治など、一流の野球人と談笑する姿も写っている。「人生は芸術である」 その言葉をPL処世訓の第一条に掲げた徳近は、信者にスポーツや芸術活動に励むことを推奨したが、彼自身がもっとも愛したのが野球だった。1955年に創立したPL学園に野球部を作るように命じ、甲子園で人文字を描くことで教団名を喧伝しようとした。 葬儀の2か月後、PL学園に入学してきたのが、KKコンビ(桑田真澄、清原和博)だった。KKは5季連続甲子園に出場し、2度の全国制覇を遂げて、野球部は黄金期を迎える。その頃、教団の信者数も公称265万人に達し、新宗教の一大勢力となっていった。 25歳という若さで3代教祖を継承したのは、徳近の養子である御木貴日止(たかひと)だが、先代とは対照的な人物といえた。82歳で亡くなるまで、強烈な個性で信者に世界平和と幸福な人生を説き続けた徳近のあとを受けたのだから、無理もない。内気な性格で、徳近のようなカリスマ性を発揮できない。継承後、信者数は減少の一途をたどった。 継承と同時期、彼は美智代夫人と結婚している。その結婚に対して教団内で強い反発があったことも、信者の不信を招く結果となったといわれる。 そして結婚24年目の2007年に、教団を大きく揺るがす事態が起こった。3代教祖が脳の疾患である硬膜下出血で倒れたのだ。その後も体調はすぐれず、最近では車椅子での生活を余儀なくされている。一方で夫人の姿が教団行事で頻繁に確認されるようになっていく。 2000年代に入ってから教団は、教会の統廃合を進め、かつて400以上あった教会は、いまやおよそ半数にまで減っている。財政状況は良好とはいえず、教団運営をスリム化するのも致し方ないことだろう。しかし、全国の教会はその土地の信者の寄付で建てられたものだ。一方的な統廃合の決定に、教会を第二の“我が家”のように思う信者の不満は募るばかりである。 信者の実数を知る立場にあった元教団教師(布教師)が証言する。「公称265万人の頃でも、実数は約90万人。現在は公称90万人ですが、機関紙である『芸生新聞』の発行部数から考えれば、数万人程度ではないでしょうか」 信者がここまで激減すれば2世、3世が通うPL学園の生徒数も大きく減った。 かつては3学年で1000人の学生が共同生活を送っていたPL学園高校への入学試験は定員を大きく割り(2015年度の理文選修コースの競争倍率は0.23倍だった)、現在の1年生は2クラスしかない。 そして、春と夏の甲子園を通算7度制し、高校野球ファンの間で絶大な人気を誇った野球部も、昨年夏に廃部となった。 毎年8月1日にはPL花火大会(教祖祭PL花火芸術)が開催される。かつては12万発を打ち上げ、大阪府富田林市に50万人を集めたという真夏の風物詩も、現在では40分程度で打ち止めである。かつての華やかさを知る者にとっては寂しい限りだ。(文中敬称略) 【PROFILE】やながわ・ゆうじ/1976年宮崎県生まれ。週刊誌、スポーツ雑誌を中心に、幅広いテーマで執筆。2016年、PL学園野球部の終焉を描いたルポルタージュ『永遠のPL学園 六〇年目のゲームセット』で小学館ノンフィクション大賞を受賞。※SAPIO2017年3月号
2017.02.12 07:00
SAPIO
運動音痴で野球に興味がなかったという
掛布の31、立浪の3などプロ野球の背番号争奪戦ドラマ
 日ハムでダルビッシュ有(30)の「11」を受け継いだ大谷翔平が大活躍を見せ、ヤクルトで昨オフに青木宣親(34)から「1」を渡された山田哲人(24)が2年連続トリプルスリーを達成するなど、期待に応える選手がいる一方、“背番号の重圧”に勝てない例もある。 2013年、広島で当時の野村謙二郎・監督が、自身が現役時代につけていた「7」を授けたのが堂林翔太(25・2009年ドラフト2位)だったが、その重圧からか年々出場機会は減っていく。今年は47試合出場に留まり、チームのリーグ優勝にもほとんど貢献できなかった。 長く生え抜きとして活躍した選手の番号は、後世の選手に様々な重圧を与える。 ヤクルトの背番号「8」として4番を張った広澤克実氏は、FAで巨人に移籍。「8」は原辰徳氏の番号だったので、「80」をつけた。その後、阪神に移籍した際につけたのが“ミスター・タイガース”と呼ばれた掛布雅之氏の「31」だった。広澤氏が振り返る。「阪神では最初、『48』をつけることに決まっていたんです。ところが、入団発表の当日に“『31』は掛布のイメージが強すぎて誰もつけたがらない。キミがそのイメージを中和してほしい”と球団側に頼まれて、急遽変わったんですよ。そのせいで、活躍しても甲子園のファンから“背番号を返せ”なんてブーイングを受けました。今考えれば馬鹿馬鹿しい話ですが、当時は大変でしたよ(苦笑)」 先人に匹敵する逸材に渡す、という曖昧な基準は落としどころを難しくする。「中日では2009年に球団記録の2480安打を放った立浪和義が引退し、“背番号『3』を永久欠番に”というファンの署名活動まであったが、白井文吾・オーナーと落合博満監督(当時)は、“森野将彦(38)に『3』を渡す”と決めて発表し、猛反発を食った。結局、森野は辞退。『3』は立浪と同じPL学園の後輩として2011年に入団した吉川大機が継いだが、入団わずか2年で戦力外通告を受けた」(中日新聞関係者) 現在は2011年のドラ1・高橋周平(22)が「3」をつけている。 実績を残せば“俺の番号”と胸を張れ、力が無ければ後から出てきた選手に奪われる。オフシーズンはそんな「背番号争奪戦ドラマ」のヤマ場でもあるのだ。※週刊ポスト2016年12月16日号
2016.12.07 16:00
週刊ポスト
小学館ノンフィクション大賞を受賞した柳川悠二氏
第23回小学館ノンフィクション大賞・柳川悠二氏「逆転のPL」を描いた理由
 今年で23回目となる「小学館ノンフィクション大賞」の最終選考会が10月下旬に行なわれた。9年ぶりに一新された選考委員が最終候補5作品について縦横無尽に論じ合い、強豪校野球部の終焉を描いたノンフィクションライター・柳川悠二氏(40)によるルポ『永遠のPL学園──六〇年目のゲームセット』を大賞に選出した。本作品は来年早々にも単行本化される。【受賞作品のあらすじ】 春夏通算7回の甲子園制覇を誇るPL学園野球部は、2016年7月15日、約60年の歴史に幕を閉じた。最後の部員は12人。強豪校では当たり前の「特待生」も、彼らの世代にはいない。本作では、その12人の成長を2年にわたって追うとともに、なぜ名門野球部が廃部に追い込まれたのか、その真相を探った。 最初の証言者は、学園の母体であるパーフェクトリバティー教団を立教した二代教主・御木徳近の意を受け、部の強化に尽力した学園1期生の井元俊秀。80歳になる井元は野球部創部の経緯、野球部と信仰の深い結びつきを初めて明かした。 さらに桑田真澄、清原和博らが活躍した全盛期にも、PLの強さの根源に「信仰の力」があったと関係者は口を揃えた。全国中継される春夏の甲子園で、アルプススタンドに「PL」の人文字が描かれ、野球部は教団名を世に広めた。その効果は絶大で、春夏連覇を達成した1987年には公称信者数が260万人に達する。教団のネットワークを駆使して有望選手の情報を集め、信者の寄付を投じて特待生を受け入れる。それがPLの強化システムだった。 入部したばかりの1年生は先輩に対して「はい」と「いいえ」しか口にすることが許されず、何かミスをすれば連帯責任。そうした“鉄の掟”はPL野球の精神的根幹となった一方、2000年代以降は度重なる暴力事件の温床にもなっていく。 2013年2月に発覚した不祥事を機に、学園と教団は廃部へと舵を切る。それ以降、野球経験のある監督が置かれることはなかった。教団やOBの事情に翻弄されながら名門校の伝統を背負った最後の12人だが、公式戦や練習試合で連戦連敗。彼らの野球は、先制しても結局は負けてしまう“逆転されるPL”だった。 そうして公式戦の勝利がないまま、「最後の夏」を迎えたPL。その初戦で、12人は黄金期を彷彿とさせる逆転劇を見せる──。 【受賞者の言葉】 PL野球部が最後に全国制覇したのは、立浪和義が主将を務め、片岡篤史、宮本慎也らが活躍した1987年夏の甲子園だ。もう30年近く前のことなのに、高校野球ファンの間でPL人気は根強い。黄金期の圧倒的な強さとアルプス席の人文字応援が、鮮烈に脳裏に刻まれているからだろう。 かつては「逆転のPL」が代名詞だった。たとえリードされていても、胸のアミュレット(お守り)を握りしめ、最後まで勝利を信じて戦い抜く。そして信じられないような一打、プレーが飛び出し、数々の逆転劇が生まれた。その背景には学園の母体である教団の信仰があり、PL野球の得体の知れない強さは相手校にとって脅威となった。 PL野球の真髄はどこにあるのか。信仰の側面から追いかけ、数奇な歴史と経緯を知れば知るほど惹かれたのが、12人の最後の部員たちだ。背が軒並み小さく、線も細い。どこにでもいそうな高校球児たちだった。彼らは、学園が部の強化を止めたことを知りながら、名門校に憧れ入学してきた。 昨年、“後輩のいない最上級生”となってからは連戦連敗。それでもPLの部員として、報道陣には「目標は甲子園」と言い続けた。一方で、彼らは目の前の試合に必死だった。まずは一勝して校歌を歌うことだけが彼らの願いだった。彼らは公式戦未勝利のまま部活動を終えたが、最後の試合では、まさかの逆転本塁打が飛び出すなど金看板に恥じぬ野球を見せた。 今回の受賞は、その12人の2年半の成長を讃えるためにいただいたものだと理解している。【プロフィール】やながわ・ゆうじ/1976年、宮崎県生まれ。ノンフィクションライター。法政大学在学中からスポーツ取材を開始し、2005年以降は春夏の甲子園取材をライフワークとする。著書に『最弱ナイン』(角川書店)などがある。※週刊ポスト2016年12月2日号
2016.11.23 16:00
週刊ポスト

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