別当も、門田が負けても負けてもローテーションから外さず、「来年はすごい投手になるから」と目をかけ続けた。1年目の5勝11敗の成績がそれを物語る。
「監督の思いやりが伝わってきたし、妻子を早く呼びたいと必死に投げた」
門田は1年目のことを、こう話してくれたことがあった。
1年目の活躍が評価され、年俸が520万円に上がったのを機に妻子を横浜に呼んだ。しかし2年目のシーズン初めに、肩を痛めて戦線離脱。その後3年間を棒に振ってしまい、再び妻の再就職によって支えてもらうこととなった。1982年に8勝を上げて復活。結局、実働9年間で31勝41敗1Sだった。
かつて監督から「ここを抑えたら登板予定がなくても札幌に連れて行ってやる」とハッパをかけられ、本気でピンチを脱したような豪の者もいた。少々交際費が減っても、選手たちが気持ち良く仕事がやれればいいという監督、それに応える選手。今の野球で、そうした粋な関係にある師弟は何人いるだろうか。
※週刊ポスト2014年4月18日号