村崎はどん底にあえぎながら、「もう一度メジャーに」と前向きに考え始めていた。そして二〇一三年八月、「日光猿軍団」が閉園するニュースを知る。「これだッ」と思った。
「猿回しっていうのは、元々は猿曳って呼ばれていたんですね。それから芸をしながら旅するようになって猿回しと呼ばれるようになり、それで今、ぼくは『猿芸』って呼んでいるんです。
ぼくはもう芸歴が37年になります。猿軍団の芸は僕がやってきた伝統芸とは違った。だけど思ったんです。伝統も大切だけど、やっぱり壊していくことも同時にやっていかないと、芸というのは続かない。だから団体芸については、例えばAKBが出てきたとき、ありだなと考え始めていたんです」
二ヶ月考えた村崎は、間中に「跡を引き継ぎたい」と連絡するが、間中の答えは拒絶だった。かつては教えを請われて断った間中に、今度は村崎が頭を下げた。独学で猿軍団を立ち上げた間中と、伝統芸の村崎。プライドとプライドが対峙していた。最初に連絡してから半年後、間中は最後にこう言った。
「太郎・次郎っていう名を捨てれるかッ」
「もちろんッ」
村崎太郎はそう即答した。こうして村崎は、間中から「日光猿軍団」の一切を譲り受ける。全てが決まると間中は「いやいや、本当は(太郎・次郎という名を)捨てなくていいから」と言った。
「日光猿軍団と太郎・次郎が一緒になるんですから、これ以上はないダブルネームでしょう。来年は申年ですしね。猿芸は、人間と猿の芸が融合したものなんです。調教はもちろんですが、猿の芸をフォローするのも人間の芸なんです。そうですね、ライバルは劇団四季です。だって同じ演目でもずっとロングランしているでしょう。歌って踊れるし、そんな舞台を目指します」
そしてついに、「日光さる軍団」の舞台が初日を迎えた。村崎が初めて、猿の団体芸に取り組んだのだ。純粋に観客の目からは、まだ調教が間に合わず、統率がとれていないように見えたかもしれない。しかし私は思った。おそらく村崎は、完璧を求めすぎているのだ、と。もう少し涼しくなったら、また見に行こうと思っている。
※SAPIO2015年8月号