この年の大きな敗因の1つは貧打だ。頼みの王が開幕前に足を故障して序盤は代打のみでの出場が続き、中心選手を欠いた打線は凡打を積み上げた。王はなんとか6月には戦線に復帰したが時すでに遅く、打線は.237(史上ワースト5位)と低迷する。当時入団5年目を迎えていた淡口憲治氏が語る。
「V9時代はONがいるのが当たり前で、打順も定着していた。でも1975年は違いました。僕でさえ4番を打ったことがあるほど。あの頃はレギュラーと控えの力の差も大きくて、相手に脅威を与える打線にはなりませんでした」
長嶋の穴埋めのために獲得した「助っ人外国人」が期待外れに終わったのも痛かったという。
「オリオールズやブレーブスで活躍していた大リーガー、デーブ・ジョンソンを獲得しました。しかし彼はスライダーが大の苦手で三振ばかりで、新聞には“ジョン損”と叩かれましたね」(淡口氏)
守備面では正捕手の不在が響いた。名手・森が引退したことで、扇の要に座る選手が決まらず、吉田孝司を中心に杉山茂や阿野鉱二らが交代でホームを守っていた。
捕手の不安定さは投壊をも導く。前年には力のあった投手陣も、この年は堀内が10勝止まり。小川、横山忠夫が8勝、高橋一三も6勝と振るわず、新浦寿夫に至っては2勝11敗と大きく負け越す。9月には11連敗という球団新記録も作ってしまった。
開幕前にこの戦力で行けると高をくくっていたのか、他球団からの補強がなかったことも災いしたといえる。日本ハムから「安打製造機」の張本勲を、太平洋クラブから主戦級先発の加藤初を補強したのは翌年、長嶋監督2年目のことだ。
そしてこの緊急事態に、長嶋に的確なアドバイスができる参謀がいなかったことも、低迷に歯止めを掛けられない原因だった。川上巨人を陰で支え続けた牧野茂ヘッドコーチが前年限りで勇退。他のコーチ陣も一新されていたことで、首脳陣の経験不足が目立ち、新監督は次第に孤立していった。淡口氏もこう証言する。
「1年目の長嶋さんはいつもピリピリしていて、とても近づける雰囲気ではなかったですよ。プレッシャーが物凄かった。たとえ先発出場できても、王さん以外は2打席続けて凡退すると、容赦なく代えられました。3回目のチャンスはないんです。投手もボールが先行するとすぐに交代させられました」
※週刊ポスト2015年11月20日号