一家が辿った苦渋の過去に、ユファンが触れたのは初めてのことだった。1998年、IMF危機の影響で家計がどん底に落ちたユチョン一家は、新たな仕事を求めてアメリカに移住した。だが、言葉もわからないためユチョン兄弟はアメリカの学校にうまくなじめなかった。救いとなるはずの家にも不幸が訪れた。以前からけんかの絶えなかった両親は、渡米後に離婚。一家は離散した。
「ユチョンとユファンは母親に引きとられました。女手一つで子供2人を育てるため、母親は夜遅くまで働き詰めだったそうです。それでも生活は苦しく、兄弟は毎晩カップラーメンを食べて飢えをしのいだといいます」(前出・韓国のスポーツ紙記者)
このままでは自分のせいで子供の未来が犠牲になる――悩んだ母は、離婚した父親と話し合い、兄弟は父親の元で暮らすことになった。高校に上がると、ユチョンは家計を助けるべく工事現場などで肉体労働に励んだ。全ては弟のためだった。ユチョンはかつてインタビューでこう語っている。
「弟にだけはぼくと同じ思いをさせたくなかった。バイトで貯めたお金で、弟が必要なものは全て買いました。学校の送り迎えもぼくがやっていたんです。たぶんぼくは、両親にやってほしかったことを、弟にしてあげようとしたのだと思います」
ユチョンが東方神起としてデビューした2004年当時のこと。まだ中学生だった弟は、精一杯の背伸びをして兄にブレスレットをプレゼントした。
「ユチョンの左腕には、今も一日も外すことなくそのブレスレットがつけられています。撮影時に衣装のイメージと合わなくても、これだけは絶対に外さない。苦楽を共にしてきた兄と弟の、愛の結晶なのです」(韓国芸能関係者)
東方神起の人気が不動のものとなった2008年、ユチョンは母と弟をアメリカから韓国に呼び寄せた。以来、ユチョンは変わった。
「弱音を吐かなくなりました。ぜんそく持ちのユチョンは体が弱くて。あそこが痛いここが痛いって、インタビュー中も“ヘタレキャラ全開”だったんですが、一切そういう話をしなくなった。俳優業にも挑戦し、自信がついたのでしょう。泣かなくもなった。以前のユチョンは、ライブでも必ず最後に感極まって泣いてしまうキャラだったのに。母と弟が見ていますからね。強い兄としての姿を見せたかったのでしょう」(前出・韓国のスポーツ紙記者)
※女性セブン2016年3月24日号