田岡はひばりを「お嬢」と呼び、ひばりは田岡を「おじさん」と呼んだ。少なくとも田岡の呼称は、ヤクザならば「三代目」、所属芸能人ならば「社長」というものが普通で、ひばりの使った「おじさん」は、ほかには絶対に許されないものだった。
田岡が最初、ひばりに赤い靴をプレゼントしたのは有名だが、ひばりは「これ、おじさんにもらったの」とうれしそうに周囲に見せた。また、田岡はひばりの興行に頻繁に同行。ひばりが歌う舞台のソデで彼女を見守りながら、歌のリズムに合わせてステップを踏んでいたという。
1962年、ひばりが小林旭と結婚した際には、田岡が式に父親役として出席。そのわずか1年7か月後に離婚した時には、田岡自ら記者会見で解説役を務め、「理解離婚」という当時の流行語を生むきっかけまでつくった。
私生活のサポートだけではない。たとえばひばりの母・喜美枝は何かと娘の芸能活動に介入するステージ・ママだったのだが、田岡はその貫禄と器量で喜美枝と見事な良好関係を築いていた。田岡がいなければ、昭和の歌姫・美空ひばりは生まれなかったのでは、とする意見すらある。
神戸芸能社は田岡が社長を務める、間違いのない“企業舎弟”だったが、一般社員は全員“カタギ”。また極めて明朗かつ近代的な経営が行われており、不可解な伝統や因習が支配する芸能界を改善した功績も大だったと言われている。しかし1960年代後半から本格化した警察の暴力団取締作戦「頂上作戦」の中で、神戸芸能社は活動停止に追い込まれる。
神戸芸能社の躍進は、同時に展開した山口組の全国制覇に結果としてリンクし、その影響力拡大に貢献した事実も確かにある。だが、ひばりという大スターの出発点に、また日本の芸能界のある基礎部に、田岡というヤクザが貢献していたのも、また事実なのだ。今ではもう二度とありえない、歴史の一幕である。(談)
●やまだいら・しげき/1953年山形県生まれ。法政大学卒業後、フリーライターとして活躍。『ヤクザに学ぶ』シリーズなど著書多数。近著に『実録 異端者たちの最期』(徳間書店刊)がある。
※SAPIO2016年4月号