◆PLに勝ちたいんや
履正社の岡田は、1961年に大阪に生まれた。母は戦後間もない50年からおよそ2年間行われた女子プロ野球の第一号選手で、岡田少年のキャッチボールの相手をしていた。
「礼儀や躾(しつけ)に厳しく、ようけしばかれました(笑)」
高校は兵庫の東洋大姫路に進学。当時の兵庫では、報徳学園と2強を形成していた。報徳に勝てば監督の機嫌が良く、負ければ地獄が待っていた。
「当時の高校野球には厳しい上下関係があり、根性とか、執念とかの世界。もはや部活動ではなく修業ですよね。練習中は監督に、終われば先輩にいつしばかれるかわからない恐怖があり、毎日、練習が嫌で仕方なかった。1979年の選抜には出ましたが、卒業後は完全に燃え尽き症候群に陥りました」
引退後、桜宮高校のコーチを経て、履正社の監督となったのは1987年のことだ。その年、立浪和義らがいた同じ大阪のPL学園が春夏連覇を達成した。
「当時の履正社は選手もおらへんし、PLと勝負できる実力ではないのに、“PLに勝つか、オレにしばかれるか”というような恐怖政治を敷いていました」
10年後の1997年夏には甲子園出場を果たすが、チーム力を持続できない。転機は2002年。岡田は生徒に手をあげ、高野連から6カ月の謹慎処分を受けた。
「結局、やらされる練習では生徒も野球を楽しめず、上達しない。それからは自主性を重んじ、練習の質を求めた。毎日のテーマを決め、選手自ら課題と向き合い、考えさせるような形に変えました」
岡田を訪ねた日、最初の練習メニューであるキャッチボールから選手に寄り添い丁寧に指導していた。
「グラブの捕球面をはっきり相手に見せるんや!」
岡田は言う。
「プロを見ても、基本練習ばかり。山田にしても(T-)岡田(現オリックス)にしても、卒業生がプロで活躍する確率が高いのは、基本を大切にしてきたからだと思っています」