山中は、机の上に、1996年に起きた「安楽死事件」の証拠品ともなる『看護記録II』と題された患者のカルテを並べるという先手を取った。まず結論から入ったのだ。一度は京都府警本部から検察に送られたこのカルテも、不起訴後は不要となって返却された。
私は、その少し黄ばんだカルテを覗き込んでみる。日付は、多田さんが亡くなる1996年4月27日のページだ。午前6時半から、赤色のボールペンで書き出されている。午前中の段階では、「呼名にてわずかに返答」、「おはようと言う」など、記されているが、午後1時以降は、「呼名反応なし」と綴られ、容体の変化が窺われる。
1時半を過ぎた頃から、「開眼しているも捷毛(しょうもう)反射なし」、「四肢冷感強い」、「HR(心拍数)130代(『代』は『台』の誤字と思われる)」で、「シリンジ(モルヒネ)3.5」と、いよいよ死に向かう人間の様子がメモに映る。
午後2時には「シリンジ4.5」に増加、2時半には、「山中医師の指示」によって、抗けいれん剤「フェノバール」を1アンプル投与。2時50分には、「HR DOWN」、「R(呼吸)停止」、「永眠される」と書かれ、カルテの記録はここで終わっている。