昭和30年代、町に飛び出し、夢中でシャッターを切った10代の女の子がいた。写真コンテストで多くの賞を取り、「女に負けた」とカメラ小僧たちを悔しがらせた齋藤利江さん(78才)。父親の反対もあり、いったんは諦めたはずの写真家への道。それが、40年の時を経て、60才にして現実のものとなった。齋藤さんがフィルムに収めた当時のニッポンが、今に伝えるものとは──。
元号が変わろうとする中、「これぞ昭和!」な写真が世間で話題を呼んでいる。撮影したのはどんな人? ぜひお会いしたい! 女性セブンの名物記者“オバ記者”こと野原広子(61才)は、そんな希望をいだいていていたところ、対談が実現した──。
オバ:高校生にして写真コンクールで多くの賞を取っていた齋藤さんは、写真家になるはずだったんですよね?
齋藤さん:そう。でも私が高2のときに、繊維問屋をしていた父が病に倒れたんですよ。桐生は繊維の町。連日、東京の大手デパートが買い付けに来るから、桐生の旦那衆は芸者さんをあげて接待するの。
オバ:映画『森繁久彌の社長シリーズ』の世界? 「パーッとやりましょ、パーッと」って。
齋藤さん:まさにアレ! だから、みんな体を壊したの。うちも大黒柱の父が倒れると商売は一気に傾いて、早い話、倒産。私を大学に進学させるどころじゃなくなった。それが弱みを娘に見せられない父の口を通すと、「お前なんか東京に行ったら、だまされて売り飛ばされるぞ(だから、カメラマンの道は諦めろ)」とこうなるわけ。
オバ:反抗しなかったの?
齋藤さん:そりゃあ、恨みましたよ。大学進学できないのは仕方がない。跡取り娘だから、父の言う通り、桐生でカメラ店を始めたのもいい。でもコンクールは「絶対にダメ。自分の腕を立てるな。お客の腕を上げろ」って、これは我慢できなかった。そこで父に隠れて撮って出すとそれが賞を取っちゃう。とうとう怒った父が、今までの写真を全部、捨てるって。そのときネガを持っていかれて、それきり私は10代のときに撮った写真をないものとして生きてきたんです。
オバ:その“玉手箱”が還暦で開いたのね。
齋藤さん:家を片付けていたら、見慣れない泉屋のクッキーのブリキの箱が出てきたの。開けたらネガがびっしり(※注)。もう声を上げて泣きましたよ。私がカメラにかけてた気持ちをわかってたから、「これは捨てられない」と父は思ったんだろうなと…。69才で死ぬまで、父はとうとうネガがあるとは言わなかったけどね。
〈※注:40年ぶりに日の目を見たフィルムには、撮影した年月日・場所・使用機材などが色褪せることなく刻み込まれていた〉