しばらく前のことですが、子どもの記憶から作られた「似顔絵」が実に正確で、犯人逮捕の決定的な手がかりになった事例が続き話題になりました。その際、「子どもの目は大人よりも優れている」という指摘がされました。なぜか?
大人はありのままを見られない。自分なりの意味や知識、解釈を加えてしまう。例えば、眼鏡や髪型、肩書きや高そうな衣服や時計などの属性によって、大きな影響を受けてしまいがち。しかし子どもは網膜に映った映像、形や色をそのまま受け取り覚えている。
「外部から『こうだったのでは?』と情報を入れられても、子どもは『違う』とはっきり否定できる。一方、大人は『そう言われればそうだったかも』などと、あやふやになってしまう」と専門家がコメントしていました。そう、西谷監督が指摘するように、日常の中で意外と、人は他者のことを正確には見ていないし覚えていない、ということも、ありうるのかもしれません。
特に『モンテ・クリスト伯-華麗なる復讐-』というドラマは、フィクションとは何かを問う作品である点が、実に興味深い。当り前ですがお芝居では日本人が外国人になったり若者が老人になったりする。宝塚歌劇団では女性が髭ヒゲつけ男性になるし、歌舞伎はその逆も。
そもそも歌舞伎は「ケレン」が見所です。登場人物がガマガエルに変身したり狐や桜の精になったり。「実は何々」「実は-」と変身するのが日常茶飯。観客も不自然と思わず「こういうシチュエーションね」と、いわばお芝居の約束事として受け入れ流れに乗って展開を存分に楽しむ。
同じく、柴門暖がモンテ・クリスト・真海となって現れた時、「ああそういうことね」と受け入れるかどうかで、ドラマ世界の扉は開きもするし閉じもする。その意味でリトマス試験紙のようなドラマです。
さて、今夜はいよいよ最終回。復讐劇はいったいどこに着地するのか。絶妙な演出と計算された脚本、アクの強い演技を見せる役者の力によって、ドラマ界に新たな潮流が生み出されるのか、注目です。