本田のサッカー人生は、逆境の連続だった。1986年、大阪で生まれた本田は、幼い頃に両親が離婚し父親に引き取られたため、母親と離れた環境で育った。
「幼い本田にとって、母親のいない寂しさは相当なものだったでしょう。それを紛らわせたのがサッカーでした。3才年上のお兄さんと、毎日暗くなるまでボールを蹴っていたそうです。小学校の卒業アルバムには《必ず世界一になる》と書いているんです。活躍する姿を、お母さんに見せたいというのもあったのかもしれません。父親も指導に熱心で、練習を休んでいると、“今、ブラジルでは選手が練習しているぞ。置いていかれるぞ!”と発破をかけられたそうです。本田の負けん気の強さは、その頃に育まれたんでしょう」(サッカージャーナリスト)
中学時代、本田はガンバ大阪の下部チームに所属していた。だが高校進学時、ガンバ大阪の1つ上のクラスに進むことはできなかった。
「プロチームの指導者が見て判断したわけですから、“サッカー選手としての才能や将来性がない”と、失格の烙印を押されたようなものです。中学生にとっては酷な宣告ですよ。ところが、本田は失意に暮れることなく、地元から遠く離れたサッカーの強豪・星稜高校(石川県)への進学を決めます。 “ここに入ったらおれはのし上がれる”と父親を説得したそうです」(前出・ジャーナリスト)
高校3年生のときには、キャプテンとしてチームを全国高校サッカーベスト4に導き、一度閉じかけたプロサッカー選手への扉を再びこじ開けた。プロ入団後の本田を知る人物が明かす。
「試合はもちろん、練習でもちょっとした遊びでも負けたくない。ある日、ジュースを賭けて練習後に何人かでリフティングゲームをして、本田が負けた。そうしたら何も言わずプイッとその場から立ち去ったんです。先輩たちは“なんだアイツ”ってなってましたけど、ロッカールームに引き揚げたら、勝った選手のロッカーに100円玉が2枚、ちゃんと置かれていました。本田の姿はもうなかったですけどね(笑い)。よっぽど負けを認めたくなかったんでしょう」
2006年に初めて日本代表に選ばれると、2008年には日本を飛び出し、オランダ、ロシアを渡り歩いた。2013年末にはイタリアの超名門・ACミランに移籍した。だが、世界の壁は厚かった。