「PLのユニフォームを着て野球がしたい、甲子園に出たいという気持ちで入学したのに、ユニフォームを着られない悔しさはあったし、何のためにここに来たのか、という思いは抱えていました。6か月は長かった」
最後の夏を経験できなかった先輩は引退し、中川が主将となってスタートした新チームの監督には、野球経験のない当時の校長が据えられた。この頃から教団は、廃部へ舵を切っていた。
最後の夏、中川はセカンドを守りながら守備隊形を指示し、攻撃時はサインを出していた。チームは大阪大会の決勝まで進出し、大阪桐蔭と対戦した。
「実質、監督がいない中で、自分が監督の役割を担うことで、野球そのものを学べた。甲子園には出場できませんでしたが、僕はPLの野球部で良かったと思うし、だからこそ今も野球を続けられているんだと思います。目標とするプロに遠回りしたとは思っていません」
これまで81人のプロ野球選手を輩出したPL学園だが、立浪は「現役選手がいなくなっていくのが寂しい」と吐露し、PLの名が忘れられてしまうことを危惧していた。この秋、“82人目”は誕生するだろうか。(文中敬称略)
●取材・文/柳川悠二(ノンフィクションライター、『永遠のPL学園』著者)
※週刊ポスト2018年8月10日号