先ほどの、国王と王妃の逝去の例に戻ってみる。「悲嘆のため」の一節を追加するのは、1つの方法だ。悲嘆が王妃の逝去の原因かどうかはわからないが、読み手はそのように理解してしまうだろう。
他にも、情報の一部分を敢えて削除する方法がある。
【事実】国王が逝去し、そして、その19年後に、元王妃が逝去した。
【発信】国王が逝去し、そして、王妃が逝去した。
2人の死の時間間隔を敢えて隠したり、「元王妃」を「王妃」とすることで、2人の死の関係性を高めようとしている。これは、一節を追加する方法よりも、情報を発信する人にとって罪悪感が少ないかもしれない。「発信できる文字数に制限があるため、やむを得ず削除した」などと、情報を削る言い訳ができるためだ。
また、事実とは順番を変えてしまう方法もある。
【事実】王妃が逝去し、そして、国王が逝去した。
【発信】国王が逝去し、そして、王妃が逝去した。
実際には、王妃の死を悲嘆したために、国王が逝去したのかもしれない。しかし、順番を変えてしまうことで、原因と結果が入れ替わってしまう。こうなると、もはや発信された情報から事実をうかがい知ることはできない。このようなやり方は、ストーリー化の域を超えて、事実を捻じ曲げていると言わざるを得ないだろう。
そもそも、人は、なぜ、ストーリー化を求めるのか。この問いに対して、心理学や行動経済学で、さまざまな研究・議論がなされている。
これは筆者の私見だが、物語にすることで安心できるからではないだろうか。人は、日常とは異なる状況や事態を目にしたときに、それをそのまま受け入れることは難しい。心の中で、何らかの決着をつける必要がある。そこで、ストーリー化という、事実の加工処理を求めるのではないかと考えられる。
それでは、ストーリー化が高じるとどうなるだろうか。つぎの例を、みてみよう。