この時、リーダーの富三郎が明治政府に送った手紙が残っている。しかも、そこには、連名で「仙太郎」のサインがある。力強い筆跡に、ふと若き日の仙之助の顔が重なった。
明治政府にとっても無許可で旅券も持たず渡航した元年者のことは問題になっていた。そこでハワイ王国への使節として、上野敬介景範が派遣されることになった。以後、労働条件が改善されたばかりでなく、適応できない者には帰国を斡旋、残留する者、アメリカに渡る者には正式に旅券も発給されたのだった。
上野のハワイ到着は1869年12月26日。ところが、この時、富三郎と手紙に名前を連ねた仙太郎は消えていた。ハワイにいたならば、当事者として、使節に会っているはずなのに、仙太郎の記録はどこにも見当たらないのだ。
◆名前の謎を解く新資料
仙太郎はどこに行ったのか──。
山口仙之助の足跡に戻すと、1871(明治4)年11月、仙之助は岩倉具視使節団とほぼ時を同じくして、アメリカ本土に渡っている。当時、旅券発給にあたり渡航者に手渡された「規則」が残っているから、この渡航は間違いない。ハワイから消えた仙太郎と仙之助が同一人物とするなら、ハワイから帰国後、再び渡米したことになる。
『富士屋ホテル八十年史』には、「岩倉具視使節団とともに」と記されているが、元年者がそうであったように、岩倉使節団も正式な名簿はなく、総勢何名であったかは諸説あり、これも謎のままだ。富士屋ホテル創業以前の仙之助の前半生はことごとく謎に包まれている。