しかし、出航から5日目に風が止み、彼らは髷を切って神仏に感謝を捧げたという。航海中に1人が亡くなり、ハワイに到着したのは6月19日だった。
旅券もなかった彼らの入国記録は残っていない。リーダーだった牧野富三郎は、後に自身の記憶から元年者の名簿を記しているが、その人数は148人から153人までと諸説ある。
彼らの多くはサトウキビ農園で契約労働者となったが、3年の契約の後、約90人がハワイに残った。名簿の中で消息がわかる人物には、ハワイ日系社会の礎となった成功者が多い。
航海日誌を記した佐久間米吉は、千葉・君津の出身。江戸で今戸焼の職人となり、その仲間達と海を渡った。カウアイ島のサトウキビ農園で働いた後、コックになり、カウアイ島で生涯を過ごした。
仙太郎の証言を残した石村市五郎は江戸・高輪の出身。最年少の13歳だった。若くして博打と酒を覚えたが、キリスト教に改宗後、彼もまた料理の技術を身につけ、ホノルルで「石村コック学校」(現存しない)を設立した。
江戸の風呂屋に生まれた佐藤徳次郎は、マウイ島のサトウキビ農園で働いた後、ハワイ島のパーカー牧場へ。そこで働いた資金を元手にハワイ島で農場を経営した。今回の150年記念式典にあたり、佐藤の子孫が集まった写真が日本語新聞「ハワイ報知」に掲載されていたが、彼らの顔が欧米系、ハワイアン系と多彩なのに驚かされる。元年者の多くは、地元の女性と結婚して家庭を築き、ハワイに根づいたのだった。