1333年、後醍醐による倒幕が実現すると、公家社会は一斉に「公家の古き御政にかへるべき世」(『神皇正統記』)を期待して色めきたった。「公家の古き御政」すなわち伝統的な公家政治への復古が期待されたのだ。
しかし、実際はそうはならなかった。後醍醐の言葉として、『梅松論』に、「朕が新儀は未来の先例たるべし」(私が行う新しい政治は、未来において先例となるだろう)とある。後醍醐は「新儀」すなわち前例のない新しい王政のシステムを作り上げたのだ。
◆天皇が直接「民」に君臨する
幕府滅亡後に始まった後醍醐の親政(天皇が自ら政治を行うこと)では、それまで特定の家柄に固定していた官職が流動化した。たとえば、倒幕に活躍した楠(木)正成や名和長年など、氏素性の知れない(かつて鎌倉幕府から「悪党」と称されたような)土豪的な武士を、雑訴決断所【*2】や検非違使【*3】などの政権の要職につけた。家柄や門閥によらずに、各人の能力・実力に見合ったポストを与えるという政治手法が、後醍醐の「新儀」だった。
【*2】訴訟処理に当たる役所で、建武政権の最重要機関。
【*3】裁判官と警察を兼ね、京都の施政権を握る役職。
官職の世襲制に大なたを振るった後醍醐は、一方で、執政の臣(摂政・関白)を置かず、政を議し定める議政官(公卿詮議)の構成メンバーの上級貴族たちを太政官八省の長官に任じた。上級貴族たちをあえて実務官僚とすることは、官職の流動化であるとともに、天皇親政の障害となる議政官の「旧儀」の解体を意味した。