そのような建武政権下にあって、後醍醐は自らの意思伝達の手段として「綸旨」を多用した。綸旨は、公式の宣旨や詔書にくらべて、天皇の私的な意思を直接的に下達できる文書形式である。
次々に下された綸旨は、その真偽を疑わせるような事態も引き起こしたらしいが、しかし天皇が自ら(臣下の序列を飛び越えて)行政機構を統括し、直接「民」に君臨するという「一君万民」的な統治形態こそが後醍醐のめざした「新儀」であり、綸旨はそのための有効な意思下達の手段だった。
後醍醐の念頭にあったのは、中国宋代の儒学とともに移入された中央集権(=皇帝専制)的な官僚国家である。宋の前の唐代に政治の中枢にあったのは門閥の貴族層である。唐代の貴族層は、唐が滅んだ10世紀の内乱とともに没落したが、宋代には、それに代わって、科挙(官吏試験)をパスした士大夫(儒教知識人)層が新たな政治主体として台頭した。有能な士大夫層を抜擢・登用するための科挙の制度も、中国では伝統として根付いていた。
ところが、日本の場合、中国の律令制度は模倣しても、科挙による人材登用は、ついぞ制度として根付かなかった。後醍醐の周辺には、一部の中下級貴族を除けば、官僚予備軍となりうる知識人層はほぼ皆無といえる状態だった。
「新儀」の王政に対する抵抗勢力は根強く存在しても、それを実現・推進するための人材が、14世紀の日本には決定的に不足していた。そのため後醍醐の王政は、開始からわずか3年足らずで瓦解してしまう。だが、にもかかわらず、後醍醐の企てた「新儀」は、やがて500年の時を隔てて日本の近世・近代の政治史に甚大な影響を及ぼすことになる。