◆平成という時代につながる問題
18世紀の半ば以降、ヨーロッパ列強のアジア進出が本格化し、対外情勢が緊迫化してゆくなかで、後醍醐の「新儀」は政治史の表舞台に再度呼び出されることになる。そのきっかけは、水戸藩で編纂された『大日本史』である。『大日本史』で展開された南朝正統史観が、宋学(朱子学)の大義名分論(君臣・父子の別をわきまえ、上下の秩序や礼節を重んじる考え)と結びつき、後醍醐の「新儀」の王政を歴史の表舞台に再び呼び起こしたのだ。
後醍醐の「王政」の理想は、近世の身分制社会に対するアンチテーゼとして、下級武士出身の「志士」たちの行動の原動力ともなってゆく。『大日本史』の南朝正統論をベースとして生まれたのが、理念化された王政のシステムである「国体」の思想である。後醍醐が目指した一君万民の統治形態は、天皇のもとでの平等の思想でもあった。
その思想は、水戸学を学んだ吉田松陰をつうじて倒幕の「志士」たちの間に広く流布し、幕末の革命運動を主導する広範なイデオロギーとなった。すなわち、吉田松陰が唱えた「草莽崛起」のスローガン、「下級武士でも国家のために働くべきだ」「身分にかかわらず天皇とつながってよい」という思想である。
幕末の志士たちによって鼓吹された「王政」の理念は、身分制社会からの解放の思想であり、それは近代日本が四民平等の国民国家へ移行してゆく原動力ともなった。江戸の身分制社会から近代国家への移行があれほど速やかに行われたのは、後醍醐の「新儀」が、たしかに「未来の先例」となったからである。