「当時はドラフト終了後1週間まで所属球団との占有交渉期間とされ、その後所属球団を除く他球団との交渉が解禁されるルールとなっていたため、結局、槙原は獲得の意志を表明していた中日などとは交渉していない。しかし、巨人との話し合いが物別れに終われば、移籍していたでしょうから、槙原が宣言残留第1号です」
槙原は翌年には完全試合を達成し、12勝を挙げてチームの優勝に貢献。日本シリーズでは2つの完投勝利を挙げ、MVPに輝いた。
この後、ルールが変わり、所属チームと他球団が並行して交渉できるようになる。2002年オフには、前年近鉄を優勝に導き、この年も42本塁打、115打点と爆発した中村紀洋がFA宣言し、阪神や巨人、メジャー球団と交渉。ニューヨーク・メッツとの契約合意が報じられたが、最終的には近鉄に残留。この年には、阪神の桧山進次郎もFA宣言をしたが、他球団からのオファーはなく、結局残留している。
2003年オフには、阪神の下柳剛が「いろんな球団の評価を聞きたい」と国内のみならずメジャーリーグ挑戦も視野に入れてFA宣言。横浜が獲得に名乗りを上げ、下柳は交渉の席にも付いたが、メジャーからの具体的なオファーがなかったこともあり、阪神に残った。
中村紀洋は近鉄が2004年に消滅したことで、その後5球団を渡り歩くことになるが、桧山と下柳は阪神に引退するまで在籍。優勝も経験している。
2008年オフには、横浜の三浦大輔が球団の姿勢に疑問を抱いたこともあり、FA宣言。阪神移籍に心が揺れ動いたようだが、結果的にファンの残留を望む声にも背中を押され、横浜に残留した。