高校時代、空中浮揚する様子(門田氏提供)
麻原、そして教団との対決の道を選んだ嘉浩には、常に激しいバッシングがつきまとった。それはオウムやその弁護士、さらにはマスコミにも及んだ。しかし、周囲の多くの支えによって目醒めたこの若者は、「真実を語り、二度とこのような犯罪を起こさせないことが自分にできる被害者への最大の償い」という信念で、法廷でさまざまな証言をおこなっていった。
嘉浩は自らの「死」の直前まで、真実究明の闘いを展開した。最後まで争ったのは、目黒公証人役場事務長の假谷清志の死の真相である。一九九五年三月一日、前日にオウムに拉致された假谷は、中川智正の供述によれば、嘉浩に電話をかけにいった午前十一時前後の十五分ほどの間に舌根沈下を起こして死亡したことになっている。だが、嘉浩は、二〇一四年の平田信の第九回公判でこう証言した。
「中川さんが“どうせポアさせることになると思っていたので、この際、ポア、殺害できる薬物の効果を確かめてみようと思った。めったにできることではないので、薬物を点滴したところ、假谷さんが急に光り出して亡くなってしまった”と言いました。処置しようと思ったけれど、もう光り出したのでそのままにしたということでした」
つまり、假谷は「中川に殺された」と告発したのである。中川はこれを真っ向から否定する。だが、嘉浩の一審では、假谷の死について、〈中川による不適切な行為〉が判決で指摘されており、また中川に假谷を引き継いだ医師の林郁夫も法廷証言のほかにも、著書『オウムと私』(文藝春秋)でこう記述していた。
〈假谷さんは状態が安定しており、血圧、脈、呼吸など、これまで通りの観察項目のどれにも異常はありませんでした。私は假谷さんの状態が落ち着いているため、私でなくても管理ができると思い、第六サティアンに戻ろうと思いました〉
假谷を中川に引き継いだ林は、その日の午後三時か四時頃、たまたま第二サティアン入口へ通じる坂で中川と会ったという。