その翌日の訪問地が、名護市の国立ハンセン病療養所「沖縄愛楽園」でした。大幅に予定を延長し、まさに手に手をとって在園者と触れ合ったのち、建物を出て車に向かうお二人に対し、在園者たちが沖縄の船出歌「だんじよかれよし(まことにめでたい)」を大合唱して見送ったのです。
のちに明仁皇太子はそのときの思いを「歌声の響」という次の琉歌に詠み、愛楽園に贈りました(琉歌とは沖縄周辺で古くから詠まれてきた定型詩です)。
〈だんじよかれよしの歌声の響 見送る笑顔目にど残る〉
(まことにめでたいと、船出を祝う歌声の響き 歌って見送ってくれた人たちの笑顔がいまも目に残る)
前日、火炎瓶を投げつけられるという辛い体験をした明仁皇太子にとって、それは象徴天皇のあるべき姿を模索する、今後の自分の困難な旅立ちへの言祝ぎの歌として、その後何度も感謝と共に思い起こされることになったのではないでしょうか。
その琉歌に、美智子皇后が曲をつけ、さらに明仁天皇が2番を書いて誕生したのが、三浦大知さんの歌った「歌声の響」なのです。
在位30年の記念式典で、この歌が演奏され、それをまだ30歳と若い三浦さんが歌ったところに、次の世代になっても皇室は沖縄の苦難に変わらず心を寄せ続けていくのだという、明仁天皇の強い思いが込められているような気がします。
その沖縄では、奇しくも式典と同日に行なわれた県民投票で、辺野古の基地建設に7割が「反対」票を投じました。しかし政府は建設を中止せず、沖縄と政府との対立は深まっています。