「ハハ。確かに今は貧困も含めたマイノリティをテーマに書いてます。でもそれは別に社会派でも何でもなく、単に自分の見てきたもんを書いただけ。昭和30年代の田舎ではうんこはもっと身近な存在やったんです。
それが〈バキウムカア〉や水洗便所の普及で糞尿を誰が始末してるかもわからなくなり、農協が人工肥料を後払いで買わせて農家を借金で縛り、野菜が美味くなくなったのも確かこの頃。でも最初から水洗の子らは何とも思わないだろうし、逆にうんこ話には相当抵抗があるらしい。私ですか?うんことお尻の話が大好きな、少年のままです(笑い)」
◆搾取による分断前の時代がおもろい
時折夢枕に立つ〈僧形の老人〉や地蔵様とも対等に話し、物怖じしない純子。バキウムカアに仕事を奪われる中、彼女は12歳にして祖母に早く自分を売るよう急かし、高松の港湾業を牛耳る若き社長〈六車〉と出会ったことが後に生きた。
ある時、村の有力者の跡取り息子3人組〈信弘〉〈信明〉〈信夫〉と森で知り合い、純子は子分に従える。そして農業の近代化がもたらした井戸や西瓜淵の異変に気付き、六車たち〈お上に働きかけられる大人〉を巻き込んで命の水の確保へと動くのだ。
その凛とした闘いぶりやおぼこい3少年と繰り広げる珍騒動、そして政治より糞尿こそが物を言う衝撃のラスト(!)まで、全く本書は一筋縄でゆかない。が、自然や人々から搾れるだけ搾り取り、都市偏重にひた走った本書の景色は、震災後の日本を描いた他の赤松作品とも一続きにある。